ラッシュアワーを過ぎてだいぶ空いてきた地下鉄の車内にそれは忽然と出現した。
おもえば最前から隣の老人の様子はだいぶおかしかった。気分が悪そうには見えない。元気そうだ。むしろ元気がありあまっているように見える。しきりと揉み手をしてみたり周囲をきょろきょろ見回したり、一秒たりともじっとしていない。
どうやら老人は人目を気にしているようだ。人目があってはまずいことでもあるのだろうか。私は本を読みふけるふりをしながら目の端で彼を観察する。
老人はしばらく神経質に左右を見ていたが、やがて誰も自分を見ていないと確信するにいたったらしい。立ちあがるやいなや、猿のような身軽さで2つの吊り革を両手でつかみ、腕の力だけで床から身体を引き上げたのである。
ぶらーん。
白いジャージとランニングシューズを履いた痩せた足が床上30センチの空中を揺れ動く。わずか5秒ほどの間だったろうか。すぐに老人は決まり悪そうに座席へ座り直してしまった。
まるで幻を見たような気分だった。というか幻だったと思いたい。だが老人はふたたび意を決したように立ちあがると、
ぶらーん
吊り革で懸垂を決行したのだった。
さすがに、車内の乗客の視線が集中する。老人は照れたように頭をかくと、いちばん近くにいたジャージに唇ピアスの金髪青年3人組に、自分はもう下りるから空いた席に座りたまえと身ぶりで示すと、ちょうど開いたドアから駅のホームにさっさと下りていってしまった。
ジャージ青年たちの茫然とした顔をデジカメで撮影できなかったことが悔やまれる。
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