Cuprum: The Refinement of Copper, or the Self. Practitioners are called Pariahs or Eremites.
クプルム:別名、銅の精錬。自己の精錬とも。実践者は「野人」「隠者」と呼ばれる。
2つ目の Refinement。Matt McFarland がプレビュー開始直前のインタビューで言及していた Pariah とは、この Refinement のことらしい。
もう少し突っ込んだ定義のほうも見てみよう。
クプルム:銅の精錬(自己の精錬)—— Torment を抑えて自然から(敵意ではなく)慰めを得るための修行。これを実践するプロメシアンは野外生活のこつを心得ているだけでなく、自然の中で暮らすのが最も居心地良く感じる傾向がある。
銅の精錬では「自己」に注目する。というと自意識過剰とか自己中心的といった印象を与えるかも知れないが、クプルムの趣旨はそれとはまったく別物だ。自分の肉体に本来備わっている適応力を掘り起こし、全感覚を解放して世界を受け入れ、自然と一体化して生きる。そうすれば、Torment の影響を和らげ、自分を排除しようとする世界と折り合いを付けていけるようになるだろう——うまくすれば世界に自分を受け入れる余地を作ってもらえるかもしれない。結果ではなく過程が重要なところはクプルムも他の精錬と同じだが、本質的に孤独な修行であるという点が異なる。そのため、この精錬は進歩の度合いをはかるのが難しい。
Matt McFaland インタビューで、Cuprum の実践者を描いたものと思われるイメージテキストが公開されている。孤独さのほどがしみじみうかがえる。
子供たちはメア・ストリート・ブリッジの下を通るとき、人差し指と中指を重ねて災い除けのおまじないをする。中には息を止める子もいる。交差点を左に曲がってセントマーク・カトリック・スクールに行く子はロザリオや十字架を手探りし、右に曲がって第23公立学校に行く子はただ足を速めて通り過ぎる。ごくたまに、そういう子供たちの一人が橋を見上げることもある。
もしその日が朝から曇りで薄暗く、濁った川面に陽光が反射してきらめくこともあまりなく、その子がしかるべき時に橋を見上げ、しかるべき場所に目を向けたなら、緑の目がふたつ、こちらを見下ろしているのと出くわすだろう。その目は人間のもののようだが、およそ人間が潜りこめるはずのない狭い隙間から覗いている。その目は別に怒っているようでも意地悪そうでもないが、やっぱりお化けに見えるのか、子供たちは小さな胸の奥で心臓をどきどきいわせながら学校へ逃げ出していく。
子供たちが橋桁の隙間に見るのは僕の姿。僕はここにずっと昔からいて、何世代もの子供たちが橋の下を通り過ぎるのを見てきた。その誰にも何もしなかったのに、彼らはいまだに僕が危害を加えると思っている。つまりまだ出ていく時期ではないということだ。でもいつの日か、子供たちは橋を見上げて僕を見つけ、下りておいでよと呼んでくれるだろう。その時が来るまで、僕は待ち続ける。—An Interview with Matt McFarland, Op. 1, 2006/05/10
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Refinement (5) Stannum
Stannum: The Refinement of Tin, or Torment続き... - Trackback from 骰子回転劇場・転|日記 june 25, 2006 05:12 pm
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