4月30日(日)

熱を測る人

たとえば、どうも体調が悪くて、熱を測ったら37度2分あったとしよう。

7度2分は微妙なラインだ。私のように平熱が36度もない冷血人間ならともかく、たいていの人間にとっては「微熱」の範囲である。熱があるともいえないし、平熱ともいえない。会社にだって充分出勤できるレベルだが、いったん体温計の表示によって「自分はいま健康でない」ことを確認してしまうと、むしろ病人になりたがる人というのがいる。そう、風邪を引いた時だけ桃缶を食べさせてもらえたとか、テレビを好きなだけ見ても怒られなかったとか、そういう経験がある人間だ。

幸い、今日は休日で予定もない。風邪薬を飲んで布団にもぐりこむ。もぐりこんで30分ほどうとうとする。半端に寝たせいか、熱のせいかわからないが、ぼうっとした頭で彼は起きあがる。傍らのテーブルに体温計が置きっぱなしになっている。

するとその人は、体温計をとって体温を測り直すのだ。

つい30分前に測ったばかりである。風邪薬だって30分では効かないだろう。だが、あたかも自分に熱があるということを再確認するかのように、体温を測る。7度4分あった。

そこで布団をかぶりなおして夕方まで寝ることにする。起きて、また体温を測る。7度2分。風邪薬は効いているのか、いないのか。食欲はあるので、その辺にあるもので適当に済ませて、もう一度風邪薬を飲み、ふたたび寝ようとする。

またしてもここで微熱のある人は体温を測るのだ。夕食前に測ったばかりだというのに。飯を食ったぐらいで体温が変化するものか。と、わかっていてもつい体温計に手がのびてしまう。

本当に具合の悪い人なら、そんなことはしない。微妙に熱があってだるい人だけが、なぜか意味もなく何度も何度も体温を測るようである。

それとも、これは私だけか。

4月29日(土)

安全なたばこの吸い方?

日付を書き忘れた新聞の切り抜きより。

【ロンドン23日=共同】23日付の英日曜紙サンデー・タイムズは、ケントなどを発売している英大手のたばこメーカー、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)が喫煙者のがん死亡を3分の1減らす「安全たばこ」を開発していると報じた。特殊な環境でタバコを乾燥処理しマイクロ波で加熱、発がん物質のニトロソアミンを除去したという。

私の記憶がたしかなら、ニトロソアミンは焼き魚のコゲと大根おろしの組み合わせでも生じる物質だが、お茶を飲むとその生成が阻害されるという。

ならば、たばこを吸うときにお茶も飲めばニトロソアミンを阻害して……はくれないか。たばこのニトロソアミンはすでに生成されちゃってるわけだしな。

4月28日(金)

ステレオタイプ

大学生になってようやく「一人称」は「ひとりしょう」ではなく「いちにんしょう」と読むことを知った。だが私が書きたいのはそんなことではない。一人称代名詞のことである。

日常生活ではあまり使われないようになって久しいものの、フィクションの世界では未だに幅をきかせている人称代名詞というものがある。たとえば、手軽に老人らしさを出そうとして、我々は老人の台詞を次のように書く。
「わしも昔はこの辺りではちょいとした顔だったんじゃ」
 これを読んで、台詞の主が若い女性や子供と思う人はまずいないだろう。しかし現実にいま、自分のことを「わし」と呼ぶ老人がどれほど存在するだろうか。私はまだ、一度もそんな老人に会ったことがない。にもかかわらず、「わし」は日本人の老人に対するステレオタイプの一部として厳然と存在し続けているのはなぜか。

まあ、自分のことを「わし」と呼ぶ老人はいまでもいるかもしれない。しかし、語尾に「じゃ」をつけて喋る老人は、まずいないだろう。それでも我々は、語尾に「じゃ」をつけて書かれた台詞を読むと、反射的に「あ、この人は老人だ」と思う。

小説の翻訳などしていると、どうしてもこのような現実よりも現実らしい虚構にたよりたくなる。これが芝居や映画の台詞ならまだいい。たとえ老人の一人称が「ぼく」や「あたし」でも声質でらしさを補えるからだ。しかし紙の上の文章では、コンテキストで読者が理解してくれることに期待するしかない。

と判っているように書きながら、現実には「10歳ぐらいの都会育ちの小生意気な少年」の台詞の文末処理に頭を悩ませる私であるよ。

4月27日(木)

落書き戦記

いろいろと思うところあって本日をもって無職に戻ります。

-----

狭くて、古くて、たまにアンモニアの匂いが漂ったりするせいで、公衆トイレを彷彿とさせるせいなのかどうかは知らないが、うちの団地のエレベーターには落書きが多い。油性マジックで書かれていた頃は、まだベンジンで拭き取れるぶんかわいげがあった。毎日のように、よく知られた四文字単語やへたくそな絵がエレベーター内の壁一面に書き殴られ、毎日のように、掃除のおばさんが雑巾とベンジンを持って壁をこすっていた。

しかし、やがて落書き犯人らは「釘でひっかく」という画期的なゲリラ戦術を修得し、掃除のおばさん達を苦境に立たせる。電波系の文章や卑猥なシンボルが壁を埋め尽くすに至って、やむなく団地の管理事務所は「壁のペンキを塗り替える」という絨毯爆撃作戦を決行するが、これも「釘」ゲリラに対しては対症療法にすぎなかった。なにぶん巨大団地ゆえ「ペンキ」爆撃1回ごとのコストも莫迦にならず、次善策として落書きの上だけペンキを塗るというピンポイント爆撃作戦が採用された。

この作戦は戦費節約のため壁とペンキの色の調和が無視され、周辺住民に著しく不評だったため、年に2回は絨毯爆撃が併用されたものの根本的対策はとられず、そのまま去年まで戦況は泥沼状態であった。

奇しくもこの膠着状態に終止符を打ったのは、かねて団地住民の票を狙っていた市会議員だ。彼が「監視カメラ」なる軍事衛星を団地内すべてのエレベーター天井に打ち上げたのは、そもそも当時、幼児をベランダから投げ落とす、夜道で小学生を襲うなどの悪事で猛威を振るっていた「電波系の人々」におびえる団地住民に対するPR策である。ところが、これはむしろ犯行現場を目撃されるのを極端に嫌う落書きゲリラ部隊のほうに戦意の喪失を招いた。かくして、十年以上にわたる落書き戦争は、意外な形で決着を迎えたのだった。

今でも、戦争の傷跡は、エレベーターの壁にうずたかく盛り上がったペンキの層にしのぶことができる。

あれを一枚一枚引っぺがしていったら、いったい何枚になるだろうと思うのだ。

4月26日(水)

ポケットとコント

先日『荷物の入れ過ぎで鞄を壊すひとはなかなかいるものではない』と書いたが、丈夫な鞄愛好家は予想外に大勢いるようだ。私も女子大生などがプラスチックの書類ケース1つで通学しているのを見かけると、よくあれで用が足りるなあと感心してしまう。しかし、さすがに男と違って手ぶらで出かける女性はあまりいない。コンビニに昼食を買いにいくOLを見ていても、むき出しの財布やら携帯やらを所在なげに手に持っている。女物の服にはそういう物が突っ込んでおけるようなポケットがあまりないというのも一因だろう。男がズボンの尻ポケットに携帯電話やら財布やらを入れているのは見かけるが、女性は、たとえゆったりめのジーンズを穿いていても、尻ポケットに物を入れたりはあまりしないようである。

-----

どこから噂が広まったのか、ちかごろはインターネットをしない友人まで私のことを「教授」呼ばわりしはじめた。オフラインでも私をハンドル名でしか知らない人もいる。生身の人間に面と向かって「教授〜」などと呼ばれると、なんとも妙な気分だ。どうせなら「博士」とでも名乗ればよかったと最近になって後悔している。博士なら助手と組んでコントができるが、教授だと誰を相方にしたらいいかわからない。教授と秘書ではなんだかいかがわしいし、教授と助手でもしっくりこない。教授と助教授では呼びにくいし、教授と学生ではありきたりすぎる。教授と講師ではぴんとこないし、教授とその妻では家族ドラマになってしまう。べつに、コントがやりたいわけではないのだが。

4月25日(火)

献血される側

ふらふらして気持ち悪い。全体的に血が足りない感じだ。会社で座ってキーボードを打っている間にも血がかかとのあたりから抜けていきそうな気がする。ざー。そういえばギリシャ神話でかかとに栓が付いている青銅の巨人がいたっけか。栓を抜くと血が全部流れ出して死んでしまうのだ。名前はタロスだったろうか。栓を抜いたのはメディアだったか。

ふらふらしてても薀蓄だけは忘れない。

レバニラだ。今日の夕飯はレバニラにしよう。

-----

本日のへんな看板。

コロッケ あっあっ 100円

熱々、と書いたつもりらしいのだが、いかんせん「つ」の字が小さいので、驚いているか慌てているように見える。
「コロッケ、あっあっ、100円」と読むといまいち落ち着かない。
 「あっあっ」と「100円」の間に何かが省略されている気分になるのだ。

たとえば、『あっあっ、200円だけど落としちゃったから100円でいいや』かもしれない。しかし『あっあっ、お客さん小銭が足りないよ、100円』ということもありうる。万一『あっあっ、そこ凝ってるからもっと強く揉んでくれる?……はい、肩揉んでくれたからおこづかい100円』だったら何が何だかわからない。

だが「あつあつ100円」でも若干の問題は残る。あつあつ「が」100円というならいいが、あつあつ「の」100円だったら大変だ。「コロッケ、熱々の100円」。ただの100円玉ではだめなのだ。ふところで温めておいた100円でもいけない。なんたって「熱々」である。ガスバーナーであぶりたての手が火傷しそうな奴でないと熱々とはいえないだろう。

脳細胞に血が行き届いてないので錯乱してきている。

そういえば「つ」が小さいのはこないだの「カッカレー」と同じパターンだな。

4月24日(月)

カバン破壊

宮沢章雄という劇作家が『牛への道』(新潮文庫)でこう書いている。

ある種の、強迫症なのかもしれないが、鞄に幾冊か本を入れていないと読書家は不安で仕方ないのだ。それでいつも重い鞄を持ち歩くことになる。けれど…(中略)…一日に何冊も本を読めるわけがないじゃないか。それはわかっているつもりだ。わかっているつもりだが、何かの拍子に、読めるかもしれないと、ありえないことを読書家なら考える。

私などまさにその典型で、大学では語学を専攻した関係で毎日重い辞書を最低2冊、兼修語学の授業がある日など4冊の辞書を鞄に入れ、そのうえ大学図書館と市立図書館で貸出上限まで本を借りまくっていた。いまでも鞄が軽いと落ち着かない。つい本を詰めてしまう。それも、1冊では読み終わってしまって残りの暇をもてあますかもしれないので、2冊詰める。それが薄い文庫本なら、万一2冊とも読み終わったときに備えて洋書を入れる。電車で運良く座れた時にじっくり辞書をひきながら読めるように電子ブック版のリーダース英和も詰めこむ。たいてい想定していたような暇はないのだが、私のような活字中毒者にとって、読むものもなくひたすら時間を潰す事態に陥るほうが恐ろしい。

たとえば病院に行った時だ。待ち時間が長いのを忘れてうっかり手ぶらで出かけてきてしまう。何か読むものはないかと待合室を探してもあるのは写真週刊誌と絵本ばかりだ。週刊誌はすぐ読み終わる。しかたなしに壁に張ってある『高血圧の予防について』とかいうポスターを隅から隅まで眺めるはめになる。あの虚しさに耐えるぐらいならむしろ、莫迦みたいに重い鞄を持ち歩いて慢性の肩凝りになるほうがまだましなのだ。

先日ついに鞄が壊れた。

何の気なしに持ち上げると、取っ手の片方が根元から外れていて、世にもだらしない格好で本体がぶらんと斜めにぶらさがる。取っ手と本体をつなぐ金具が、荷物の重みに耐えかねてすっぽ抜け、そのままどこかにいってしまったらしいのだ。

さすがの私もめげた。そもそも荷物の入れ過ぎで鞄を壊す莫迦はなかなかいるものではない。しかも紙袋ならともかく、その通勤鞄はどうせ重いものを入れると判っているのだからと、耐久性を重視してわざわざ取っ手が金具で取り付けられている頑丈なものを選んだのだ。それなのに、生身の肩より先に金属部品が壊れた。なんだか自分より鞄のほうが繊細だったと言われているような気がして癪に障る。

4月23日(日)

賞品稼ぎ

帰宅したのが今日早朝だったので、日記更新が遅れてすいません。

-----

高校の時、スーパーファミコンが切実に欲しかった。
 当時、両親は「勉学の妨げになる」と言って、バイト代で買うのすら許してくれなかったからだ。

そんな時、某英会話学校が主催するタイピングコンテストの広告を見かけた。
 パソコンを使って英単語のタイプスピードを競うのだ。
 私の目は賞品の欄に釘付けになった。
「4位:スーパーファミコン」
 これだ。コンテストの賞品なら、堂々と家に置ける。物持ちの良い両親のこと、よもや貰った物を捨てろとまでは言うまい。

私には勝算があった。
 パソコンは小5の頃から触っていたし、当時の愛機FM-77AVはさすがに時代遅れで埃をかぶっていたものの、ワープロで長編小説を書いていたからブラインドタイピングの勘は健在である。パソコン部のヲタクどもには多分およばないだろうが、狙いは4位だからそれでいいのだ。

かくして、にわか賞金稼ぎならぬ賞品稼ぎになった私はコンテストに望んだのだが――

結果は余裕の入賞。ただし、3位。

賞品はファックスだった。

当時の友人はおろか、親戚知人に至るまで、ファックスを持っている人は誰もいなかった。だいたい、高校生がコピー機能すら付いていないファックスをもらって何に使えというのか。

4位の人は、スーパーファミコンをもらって嬉しそうだった。でもいいなーって言うと明らかにイヤミなので黙っていた。

インタビューには爽やかな笑顔で「嬉しいです」と答えた。

顔で笑って心で泣いて、という言葉の意味を知った夏だった。

4月22日(土)

2級でした

五重奏団の練習の後、酒の勢いで後輩のチェリストの家に突撃し、ドリキャスの『The Typing of The Dead』でサルのように遊ぶ。主人公や味方キャラがみんな一様に背中にドリキャスを背負い首からキーボードを提げているのが、横から見ると腹に包丁を突き立てたまま歩き回っているように見えて、それで大まじめに会話しているものだから、死ぬほど笑った。

血管にビールが流れるぐらい飲んでいるので、こんなときにタイピングゲームというと集中力に対する面白い拷問テストになる。私は風呂と食事と睡眠時間と読書時以外はキーボードを叩いているようなものだから、かなりいい線をいくのではないかとひそかに自負していたが、アーケードモードをコンティニューなしでは1面クリアするのがやっとという無惨な結果にへこむ。とにかく、課題文が敵の移動につれてふらふら動くのが目で追いきれないのだ。動体視力がないのだろうか。その証拠に、ドリルモードとか、敵がどこから現れるのか分かっているステージではゲームをやり込んでいる後輩を抜いてランキング1位を叩き出している。

アメリカの会社がドリキャスを特許侵害で訴えたらしいから、発売停止にならないうちにこのゲームとセットで買っておこうかな。

4月21日(金)

間取り図の謎

この楽しみを味わうには、書店で買えるような賃貸情報誌ではいけない。交差点の信号脇に棚をつくって無造作に置いてあるから、手に取ると裏に「定価100円」と印刷されていて、さては田舎の野菜の無人販売所みたいにお金を入れる場所があるのかと探すが見当たらないので、もしも不動産屋が追いかけてきたらどうしよう、と悩みながらもちゃっかり持って来たりするような、パンフレットなのか雑誌なのか判らない「賃貸情報誌」に限る。

物件の間取り図に「店長おすすめ」「日当たり良好」などと逐一短いコメントがついているのだが、
「おまえはもう死んでいる」
 というのは何だろう。まあこれは決め台詞という言葉の意味をなにかひどく勘違いしているのだとしても、
「散髪行きたい」
 というのは誰のことだ。この物件を見つけた社員は、長髪がうっとうしくなってきたのか。しかし、だからといって間取り図の下に自分の願望を書き添える必然性がどこにあるのだ。これは七夕の短冊でもなければ神社の絵馬でもないのだ。願い事を書いたって、見てくれるのは神でも星でもなく、単に部屋を探している人間なのである。

別の所には「バカボン」とだけ書いてあるが、いったい何をアピールしたいのか、さっぱりわからない。これが「必殺仕事人もお勧め」とか「インド人もびっくり激安」ならまだ話はわかる。だが、印刷されているのはただ「バカボン」の4文字のみ。不動産屋はこの物件を見たとき「バカボン」と呟いたのだろうか。不動産屋をしてバカボンと呟かしめる部屋とはどんな部屋なのか。

「人、殺しました。」と注釈がついている間取り図もある。これはかなりだめだろう。部屋が人を殺すようではだめだ。よしんば事実だとしても、不動産屋というのはそういう部屋を紹介しちゃだめだろう。少なくとも、書いちゃったら宣伝にならないと思うのだが、どうだ。

4月20日(木)

語られざるもの

駅のエスカレーターに乗っているとき、ふと前の人を見上げると、背広の裾からシャツがはみ出していた。いや、はみ出すなどと生やさしいものではなく、そもそもズボンの中にたくしこんですらいない。それがデニムシャツとか、ともかくカジュアルな服装なら話も分からなくないが、なんといっても背広の下である。およそカッターシャツというものは、ベルトの外に出ていると見る方も見られる方もひどくだらしない気分になるものだ。

近頃の陽気ですこし頭のネジがゆるんだ人なのかと思ったが、隣の男とごくまっとうな会話を交わしている。隣の男はちゃんとシャツの裾をズボンの中に入れていたが、シャツ出し男の服装をとがめる風もない。

いったい、その男はなぜ、よりによって背広の下からカッターシャツを出していたのか。なぜ連れの男は気づいても平気な顔をしているのか。それは私の知らないファッションなのか。一種の暗号なのか。待ち合わせの目印なのか。「背広の下からシャツがはみ出している男に話しかけろ。合言葉は『へもごすけ』」とか言って秘密指令が下るのか。それならもっと分かりやすい、恥ずかしくない目印があるだろう。

おそらく、背広の裾からシャツがはみ出るに至るまでにはそれなりの経緯があるには違いないのだが、そんな話は誰も書かない。少なくとも誰も本にはしない。ひょっとしたら当人ですら話のネタにもしないまま、そのいきさつは過去に埋もれていくのかもしれない。

4月19日(水)

暁も覚えず

ちょっとだけ。いや、仮眠をとるだけだから。うん、いつも仮眠を取るときは、熟睡しすぎないように机の下で寝るのだが、机の下はいま本で埋まっているから布団を敷いているわけ。どうせ、日記を更新したら本格的に寝るんだから、今のうちに敷いておくのだ。うん、まだ眠らないよ。テレホタイムまで横になって体を休めるだけ。寝ているように見えるかも知れんが、断じて寝ていない。ついでに目も休めよう。いや、目を閉じてるだけだって。寝てるんじゃない……寝てない……寝て……ぐう。

というのが更新さぼりのいきさつ。

4月18日(火)

足し算の国と引き算の国

味付きゆで卵にはまっています。

-----

小学校の頃だったか、アメリカで釣銭を渡すときは、本来の金額に足していって客の渡された金額に等しくなるように計算する、という話をどこかで読んで、理屈は理解できるが納得はできず、そんなややこしい計算をするなんて、アメリカ人はたいへん頭が良いのだなあ、と妙な尊敬を抱いたものだ。

しかし消費税が導入されてからは、日本人も負けてはいない。たとえば、153円の品を買うときにわざと553円出して、釣りが100円玉4枚になるようにする。足し算で釣銭を計算する国だって同じことができないわけではないが、やはりあらかじめ引き算で釣りの総額をはじき出しておかないと、なかなかこういう出し方はできない。

さらに高等な小銭減らしのテクニックとして、例えば428円の品物を買うとき、28円の小銭がなくても、1030円を出すというやりかたがある。この場合、単純に1000円を出すと、500円玉1枚、50円玉1枚、10円玉2枚、1円玉2枚がじゃらじゃらと返ってくるわけで、店の釣銭事情によってはさらに大量の小銭が発生するかもしれない。しかし、1030円出せば釣銭は602円で、ぐっとシンプルな構成の小銭で済む。初めてこういう出し方をする人を見たときには、自分にはとうていそんなややこしい真似はできないと思っていたが、生活に密着する行為というのは恐ろしいもので、気がつくと、289円の品物に1090円出している自分がいる。

4月17日(月)

まぬけな光景

えっちくさいといえば、えっちくさい話題なので、苦手な人はここで止めておくのが吉ですよ。

-----

たとえば朝、エレベーターで1階に降りると、エレベーターホールの隅に、どうみてもその場で使用されたとしか思えない、得体の知れないローションのチューブが転がっているときだ。床に飛び散っている半透明な粘性の液体がそれなのだろう。傍らに「業務用ローション」と印刷された小さな段ボール箱もうち捨ててある。

断っておくがここはラブホテルでもなければ特殊な浴場でもなく、ごく普通の住宅地にある築二十数年の高層団地だ。ガラス張りのホールの隅で、深夜に業務用ローションを、しかも、床に飛び散るほど大量に使用して何が行われていたのか。

いろいろと想像はできるが、いずれにしろ、ガラス越しに爽やかにさしこむ朝の光の中では、使いかけの業務用ローションは、なんとなくまぬけな物体に見えた。

どうも朝日には、淫靡だとか猥褻なものをあっけらかんと消毒してしまう雰囲気がある。

たとえば、朝日がさんさんとレースのカーテン越しに差し込む部屋で、黒いボンデージに身を包んだ女王様が鞭を振るう光景を思い浮かべてみるといい。飛び散る汗。厳しい叱責。爽やかな空気。小鳥のさえずり。一種、体育会系のムードが漂ってしまうではないか。だめだ。SMがさわやかになっては、もうかなりだめだ。

あるいは、年に何回かは必ずお目にかかる、路上に散乱しているエロ漫画雑誌のページだ。ご丁寧に中綴じのホチキスを抜いてばらしてあるので、意図的にそこにばらまかれたことは間違いないのだが、いったい動機は何なのか、見るたびに頭を悩ませる。駅へ急ぐサラリーマンも学生もみな見向きもしない。どんなにえっちな漫画だろうと、路上で朝日に晒されてしまっては、ただまぬけなだけだ。

4月16日(日)

ピンクではだめですか

もちろん、葉緑素つまりクロロフィル(chlorophyll)のクロロ(chloro)とは塩素のことであり、塩素は黄緑色だから、その化合物であるクロロフィルも緑色の色素であり、ゆえに植物は緑色なのだという理屈は理解できる。

しかし、「なぜ葉っぱは緑色なのか」と人が問うとき、おそらくそこには「なぜ緑色でなくてはいけないのか」というもっと子供っぽい疑問も含まれていて、初めに挙げた理由では後者の疑問に対する答えにならない。だから、理路整然と説明されたようでいて、質問者にはなにか狐につままれたような、釈然としないものが残るのだ。

なぜ緑色でないとだめなのか。光の吸収効率を考えれば、黒い色素で光合成する植物がどこかで生まれたって不思議はなかったはずだ。黒では効率が良すぎるのなら、赤や青やショッキングピンクではいけないのだろうか。

仮に、地球上の植物がみなピンクの色素で光合成をしていたらどうなっただろう。河川敷の松並木も、お爺さんの盆栽も、アマゾンのジャングルもみなピンクだ。ジャングルに棲むカメレオンやカエルも保護色は当然ピンクになる。そんな世界で環境保護団体がグリーンピースというのも変なので、たぶんピンクピースとか名乗っているのではないか。なんだか、場末の劇場で漫才をしているか、ウクレレを持ってコンビで歌っていそうな感じで、ちょっとだめだ。環境保護の合言葉も「桃色の地球を救え」になる。救うまでもなく地球全体がうすらぼんやりとおめでたそうだ。

そして人々は、ちょうど今のような季節になると、窓からぼんやり公園の木々など見つめてこう呟くのだ。
「ああ、ピンクは目が休まるなあ」
 けれどもやっぱり、一部の人々は疑問を抱くのだろう。
「なんで葉っぱはピンク色なんだろう?」と。

4月15日(土)

日本ミジンコ研究会

「日本ミジンコ研究会」なるものが実在するらしい。

妹が大阪で看板を見たという。

日本と研究会の間にはさまるだけで、なぜかミジンコも偉そうに見える。

4月14日(金)

情操教育

とにかく、本さえ読んでいればおとなしい手のかからない子供だったので、幼い頃、母は、本だけは気前良く買ってくれたものだ。母自身は、電化製品の説明書を読むのもいやがる大の活字嫌いであったから、彼女にとって子供の教育によい本は童話と古典文学と相場が決まっていた。

たしか小学校に入った頃にはもう、小学館版「グリム童話全集」全6巻と「アンデルセン童話全集」全3巻が子供部屋の本棚に鎮座していたように思う。この小学館版全集は、ルビこそふってあったが、銅版画の挿絵といい、子供向けにリライトされていない残酷描写あふれる内容といい、むしろ大人向けの本だった。最近話題になった「完訳版」に近い。これだけ難しければ読み終わるのに時間もかかり、しばらくは「新しい本を買ってくれ」と親をせっつくこともないだろう、という、母親なりの打算の産物だったわけだ。

なるほど母の読みは正しかった。ひととおり読破するだけでも半年はかかったのではあるまいか。しかし「童話=子供の読み物」というステレオタイプを鵜呑みにしたところに誤算が生じた。

幼い私は一所懸命そのグリム全集を読んだ。ガラスの靴に足の大きさを合わせるために、ナイフでかかとやつまさきを切り落とす娘たち。悪い母娘の眼球をつつき出す白い鳩。首を切り落とされ、壁に釘で打ち付けられてもしゃべる馬の話。裸で釘を打った樽の中に入れられて町内引き回しの刑。悪魔の誘惑を退けるため両腕を切り落とす乙女。真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて死ぬまで踊らされる魔女。息子の肉を煮て夫に食べさせる妻……

グリム童話集とは怖い話ばかり集めている本で、そんなものを作ったグリム兄弟はすこし変なのだと、かなり長い間そう思っていた。さらに、そんな怖い本を「ためになる」といって読ませた母が理解できなかった。

-----

価値とはすべからく相対的なものであると知りつつも気がつくと「絶対」を求めている自分に少し嫌気がさす。

4月13日(木)

秘密勤務

携帯電話ショップの入口にこんな張り紙を見かけて足を止めた。

アルバイト募集
年齢:18歳〜
給料:ひみつ
待遇:VIP

むらむらと「表の張り紙見たんですけど〜」と中に入りたくなる衝動が湧き起こる。なんといってもVIP待遇だ。運転手付きのリムジンが送迎に来たっておかしくない。出勤してくると店の入口から奥に向かって赤絨毯の通路ができている。そして店長を筆頭に店員が勢揃いして「おはようございます」と最敬礼してくれるのだ。「とりあえず何の仕事から始めたらいいっすか?」と聞くと、「いいのいいの、座ってて、君はVIPだからね」と言われたりして。……何のバイトだよ。

そんな一時の空想に耽りたくて、私は今日も街に「変な物」を探す。

4月12日(水)

活字中毒者の勘

母親が風邪で寝込んだので仕事を早退して家にいます。

-----

日が昇っているうちに帰宅できるのはうれしい。大学時代に授業をサボって商店街をふらふら歩いていた頃が懐かしい。夕飯の買い物だけして帰るつもりだったが、なぜか気がついたら書店にいて、今日も一冊、鞄の中に本が増える。

だいたい、ろくに中身も見ずに、背表紙のタイトルの印象だけで適当に買うのだが、それで面白くない本をつかまされたことはまずない。ものごころついた頃からの活字中毒生活で、職業的(?)勘めいたものが身についているらしい。自分の好みに合って面白い本は背表紙を見ただけで分かるのだ。逆に、新聞や雑誌の書評に載っていたから読んでみようか、と思って本を買うと、十中八九、なぜ評者が絶賛したのか理解に苦しむほど面白くない。しょせん他人の感性で書かれたものが自分の感性に当てはまるとは限らないということか。

あるいは、私の感性が相当に偏っているのかもしれないが。

4月11日(火)

ひっそり一周年

実は、去年のちょうど今日、この『骰子回転劇場』を立ち上げたのだが。

特に感慨はない。まだ1年だし。

ま、ぼちぼちやっていきます。

-----

どうも、左目の調子がおかしくて困る。いま1日12時間モニタの前に座っている計算なので無理もない。なるべく、電車の中で寝るようにしているが、そうすると本を読む時間がない。

仕事が煮詰まるとつまんないことでも気になる。

はっきし言って、煮込みすぎた肉じゃが状態である。芋も玉ねぎも原形をとどめずという感じ。

4月10日(月)

目から遠赤外線

耳から出る音の話をしたので、今日は目の話。

満員電車などに乗っていて、知らない人と視線が合うとついそらせてしまう。目のやり場がないときには眠くもないのに目をつぶったりする。背中に視線を感じて振り返ると、ほんとうに誰かがじっとこちらを見ていたりする。

眼は、物体に当たって反射した光をとらえて物を「見て」いるのだ、と我々は学校で習う。見ることは本質的に受動的な行為なのだ。そう考えると「視線を感じる」というのは奇妙な話だ。見ることは見られる対象に何の影響も及ぼさないはずなのだから。

こんな実験がある。2匹の猿を、別々の檻に閉じこめる。檻には覗き穴が付いているが、外から覗き込まれても猿には分からない。片方の檻は、不規則な間隔をおいて人間が覗き穴から猿を覗く。すると、覗かれている方の猿は、あきらかに視線を意識した神経質な行動をとるようになるという。こちらから覗いていることは猿には分からないはずなのにだ。つまり――量子論的なことはさておき――「見る」ことは「見られる者」に何らかの形で干渉しているらしい、という結果が出たわけだ。眼は我々が思っていたほど受動的な器官ではないらしい。

耳から音が出ているのなら、眼から光線が出ていることもありうるかもしれない。遠赤外線あたりが。

知らない人に遠赤外線を浴びせられたら、それはたしかに、ちょっと怖い。

4月9日(日)

静寂を聞く

昨夜は泊まり込みモードだったので、黄色い太陽の下を徒歩で駅に。これがほんとの朝帰りである。酒を飲みながら見ていた『キラートマトの逆襲』と『アンナ・マデリーナ』がまだ脳味噌の中でぐるぐる踊っている。

-----

各駅停車しか止まらない小さな駅の地下のホームで電車を待っている。

休日の早朝だから、他に人は誰もいない。私はベンチで一人、日記のネタをメモしている。

ホームは静まりかえって、高圧線の低い唸るようなノイズだけが通奏低音のように響き続けている。

こんなとき耳を澄ましていると、徐々により微かな音まで聞き分けられるようになって面白い。排水管を流れる水、階段の上の方で誰かが革靴で歩く音、――ちょうど、夜空を見上げたときは一等星しか見えなくても、目が慣れてくるにつれてその隙間に輝いている二等星、三等星……が見分けられるようになってくる、あの感覚だ。

だが、ほんとうに静かな場所に行くと、自分の耳が発している音を聴くことができる。

健康な人間の耳が固有の音を発しているのは科学的に証明されている。イギリスのキール大学やオランダのグローニンゲン大学にはその録音記録がある。1000Hz〜2000Hzの音で、通常は気にもならないが、防音室の中や田舎の静かな日には、ごくかすかに甲高い汽笛のように聞こえる。一説によれば、人間は自分の耳から出る音によって自然界の音を分析しているのだという。耳は音をとらえるためというより、音源の位置をつきとめるための一種のソナー発信器らしいのだ。

役に立たない知識だけはすぐに覚える。

4月8日(土)

ドラキュラの血と幻の夜桜

昨日とは別の顔ぶれで夜桜見物。

参加者の一人の家で軽く腹ごしらえしてから出かけようということになっていて、昼間に先に到着していた面々が作ってくれたおいしい夕飯を8人で食べる。仕事あがりだったり2日間貫徹だったり前夜も飲んでいたりして、コンディションが悪いメンバーが半数を超えていたせいもあり、「もう花見はいいや〜」とそのまま酒盛りモードに突入した。

ドラキュラの血を飲む。

正確に言えば、Dracula's Bloodという酒である。チェリーやブラックカラントのリキュールに香辛料を加えたものだ。アルコール度数は24度だが、ラベルの説明書きを鵜呑みにしてロックで飲むと甘みが強く、刺激もきつい。唇や口内が荒れていると香辛料が沁みて痛いくらいだ。私はもっぱらソーダで割っていた。甘さもやわらいで飲みやすくなる。

誰がこんなキワモノ臭漂う酒を買ってくるかといえば、もちろん変わった物に目のない私である。

もう一本、Frankenstein's Menta というのも持っていったが、こちらは人によって好き嫌いが分かれた。ポテトリキュールにペパーミントとビターで味付けしてあるのだが、飲んだ瞬間、独特の薬っぽい香りが漂うのだ。私もこの晩初めて飲んだが、はっきりいって
「正月に飲む屠蘇をきつくしたような味」
 だった。いったい、何をつまみに飲めばいいのか、選択に困る味である。

屠蘇の味なんだからやはりおせちか。おせちにフランケンシュタイン。

4月7日(金)

ゴスペル夜桜

カフェイン錠400mgを○ゲインで胃に流し込んで、花見に向けての戦闘準備完了

-----

みんなは無事帰れたのだろうか。というか、午前様なのでさすがに眠い。おやすみ。

-----

あまりといえばあまりなので、後から思い出したことを書く。

花見といってもタウン情報誌にも載っていない、単に川沿いに桜が咲いているだけの場所である。メンツの誰一人として名所の場所取りをする暇などなかったからだ。

それでも近所の人々らしいのがちらほらビニールシートを敷いて酒盛りしている。隣の一団なぞは、我々が到着した時点で既にかなり出来上がっていたが、こちらが腰を落ち着けて酒を飲みだした頃、歌を合唱しはじめた。

見事な賛美歌を、四部合唱で。

おかげで我々は、楽しげなゴスペル(手拍子付)をBGMに、夜桜を眺めつつ酒を飲むという、風流のような、風流でないような、奇妙なひとときを過ごすことになった。

あとで気がついたことだが、道の向かい側に教会が建っていた。

しかし、去年はマイグラス持参でワインを飲みつつ花見というグループと隣り合わせになったし、今年は聖歌隊(?)の隣である。来年の花見では、どんな奇妙な集団に出会えるだろうか。

4月6日(木)

ヘアピンではたぶん無理

明日、明後日と連チャンで夜桜見物なので、たぶん更新が遅れます。

-----

今日も今日とて、数々のトラップを潜り抜けつつ出勤すると、通用口の前に、大型クリップをぞんざいに伸ばした針金が落ちていた。

この太さ。この長さ。この伸ばし具合。まさしく錠をこじ開けるためにあるような針金ではないか。

思わず戸締りを確認してみる。今日は私が朝一番のはずなので、鍵が開いていれば一大事だが、ちゃんと閉まっていたから、とりあえず胸をなでおろす。

しかし、よく考えれば泥棒に入るなら錠なんか針金でこじ開けるより壊したほうが早いわけで。金を盗るなら向かいの真珠会社のほうがあからさまに金持ちそうなわけで。

ひとときの妄想を膨らませる春の一日。

4月5日(水)

たたかう通勤者

某古本屋ではないが、うちの職場は、どこまでもだらだらといいかげんな傾斜で続く坂道を登りきった所にある。

途中で飲み屋だの風俗だのが立ち並ぶ繁華街を突っ切るのが一番の近道だが、朝ここを通るのはかなりの危険が伴う。

  1. 狭い道に無理やり乗り入れてくるタクシー特攻隊。
  2. それを避けようと道端に寄ると、路上に待ち構える「お好み焼き」トラップ(もちろん酸っぱい匂いのする方、な)
  3. あやうくそれをまたいだ瞬間に飛んでくる、おばちゃんの水撒きミサイル。(ホースの先を潰して威力増強済)

ふう、今朝もなんとか乗り切った……と溜息をついた瞬間、靴の裏に異様な感触を感じた。またやられたか……

  1. 路面いっぱいに薄く広がる正体不明のオイル攻撃

これが朝の繁華街最強のトラップである。ワックスなのか、ラードなのか、はたまたあまり想像したくないような類の油脂類なのか、私は知らないが、この路面を踏んづけたら最後、靴の裏の摩擦係数が極度に減少するという恐ろしい災難が降りかかる。滑って転ばないようにするためには、雪道を歩くように一歩一歩足元を確かめつつ前進しなければならない。それでさえ10歩に1歩ぐらいは「つるっ」と靴が滑る。

そろそろ、オイルトラップ対策としてスニーカー装備を考えたい今日。

-----

試用期間中の同僚が解雇された。明日は我が身、か?

格別ここに未練があるわけでもないから、ま、いいけどさ。

4月4日(火)

花より活字

帰宅するとWebで注文した『古語類語辞典』(三省堂)が届いていた。土日を入れても一週間経たずに本が届くとは、まことに結構な世の中になったものだ。

この辞書のことは、某チャットで知り合った真葛さんから教えていただいた。現代語の見出しから対応する古語が引けるという、いわば逆引き古語辞典である。Book of Nodの文語訳に使えるかと思って買ってみた。

夕飯を食う間も惜しんでいそいそと開いてみると、逆引きの見出し語はかなり充実しているし、基本的語彙は「自然」「旅」「老人」など別項にまとめられて、類語辞典としても立派に実用レベルに達している。ぼんやりぱらぱらめくって訳語を考えたりするのに便利そうだ。古語→現代語の逆引き索引があったり、助動詞や人称代名詞まで現代語から引けたりして、痒いところに手が届くうれしい配慮がなされている。

日本語のシソーラスというのは存外少なくて、現代語でも『角川類語辞典』くらいしか思いつかないが、『古語類語辞典』はそれに輪を掛けて需要が少ないだろうに、2800円と安い。いい買い物をしたと思う。俳句や和歌、詩を作る人なら買って損はないのではないか。

4月3日(月)

夜明けの小人さん

こぶしの木が満開の花をつけていた。鳩がたくさん止まっているようにも、純白の羽毛が舞い散っているようにも見える。冬枯れの枝の素っ気無さと、大ぶりの花弁の艶めかしさの奇妙なアンバランスがなんとなく好きだ。

-----

洋式トイレに座ったら数分ほど意識が飛んでいたらしく、気がついたら腕時計の針が動いていた。便所に暖房が効いてなくて良かった。寒くて目が覚めたからいいようなものの、さもなくば気持ち良くそのまま寝てしまっただろう。そして心配して探しに来た同僚が寝ている私を発見したらどうする。明日から私の名前に「トイレで寝てた」という枕詞が付くことうけあいである。

眠気で朦朧、といえば、高校時代に見た幻覚のことを思い出す。文化祭準備に追われて、出展する肝心の自分のイラストボードを本番前の2日間で描くはめになった。2日間完徹で描き続けて、本番の朝、夜明け前のこと。すでに自分が起きているのか寝ているのかも分からず、絵の具を溶いた3秒後に何の色を作ろうと思ったのか忘れる有様。朦朧とした頭の中に、なぜかこんなフレーズがめぐり続けた。

【今ここで寝たら、小人さんが残りをやってくれる。今ここで寝たら、小人さんが残りをやってくれる…】

体力の限界に達して半ば夢うつつだったのかもしれない。しかし、はっと気づいたとき、絵はたしかに出来上がっていた。どうやって残りを仕上げたのか、そのあたりの記憶ははっきりしないが、私は奇跡的に完成作品を展示することができた。

もっとも、「小人さん」は絵の才能はあまりないみたいだった。

今でも、徹夜仕事をする羽目になると「小人さん」のことを思い出すのだが、モニタの前でうとうとしたら、いつのまにかテキストエディタの画面が文章で埋まっている、というようなことはまだ起こっていない。

4月2日(日)

球と名の付くスポーツ

酔い覚ましに牛乳飲みつつ日記書く。

-----

修羅場につき更新できず、相済まぬ。

TRPGサークルの例会の後は、二軒ほど飲み歩くのが常なのだが、今日初めて行った飲み屋で食べ物を注文しすぎて、これ以上は何も胃に入れたくないという点で意見が一致し、二次会はビリヤードに行くことになった。

私がこのまえ球を撞いたのは半年も前のことで、煙草と同じく思い出したようにしかやらないので、相変わらず初心者同然の腕である。しかも私はおよそ球と名の付くスポーツが大の苦手ときている。簡単に言えば、ノーコンなのだ。

けっして、球と名の付かないスポーツが得意なわけではないが。

もっと簡単に言えば、運痴なのだ。省略するとなんだか嫌な響きだ。

4月1日(土)

睡魔と闘う

疲れているはずなのにさっぱり熟睡できなくて、起きても朦朧としている。

やばいなー、と思いながら会誌の編集をする。

長く寝ても眠いのはなぜだ。