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2000年5月 |←次の月|前の月→|最新の日記に↑| |
翻訳会社に履歴書を郵送する。
タッチパネル式の自動券売機で私が切符を買おうとすると、なぜかきまって機械の反応が悪い。
はじめは普通に人差し指で押してみるのだが、うんともすんとも言わない。親指でぎゅうぎゅう押したり、指3本ぐらい使ったりしてやっと電子音が鳴る。生きているエネルギーが足りないのだと思う。キルリアン写真でオーラを撮ったら瀕死の蛙ぐらいの明るさしかないのではないか。
そういえばATMで暗証番号を入力するときもなかなかうまくいかない。いつだったか急いでいる時に人差し指で連打していたら、違うボタンが反応したらしく「もう一度最初からお手続きください」とキャッシュカードが戻ってきて泣きたくなった。静まり返ったフロアに響き渡るあの慇懃無礼な声。まるで私がカード犯罪でもしでかしたようだ。
缶コーヒーでも飲んで気を落ち着けようと自動販売機の前に立ってはじめて小銭がないのに気づいた。しかしそれは千円札が使える機械だった。だれだあんなものを発明した奴は。まったく便利きわまりないじゃないか。ありがとうございました。ところが、便利の陰に恐るべき問題が潜んでいた。
千円札が戻ってくる。
一旦は中に吸い込まれるので、大丈夫だと油断していると、やや間があってから、不気味な機械音と共に千円札が出てくる。あのときの情けなさはなんとも言いがたい。だいたい、戻ってきたときの、ぶらんとした千円札の姿はなんだ。私の千円札が受け取れないというのか。ちょっと皺が寄っていただけでもう、おまえが受け取るには値しないのか。いつから自販機はそんなに偉い奴になっちまったんだ。
やっとのことで買った缶コーヒーはいつもより苦い味がした。
地道に5000hit突破。
朝、ラジオをつけると、珍しく自民党のCMが流れていたのだが、『小渕恵三はみなさんの声を汲んで政策に…(中略)…します』と現在形で言い放ったのにはぞっとした。おいおい、彼はもう故人だろうが。死んだ政治家を推薦してどうするというのだ。大丈夫か自民党。
朝っぱらから幽霊に遭遇した気分である。
最近ともなると、さすがにルーズソックスを履いている女子高生は少なくなって、太い足首をいっそう太くガン○ムの脚みたいにみせるあのだらしない靴下を憎悪していた私としては歓迎すべき傾向だ。もう10年か20年後の高校生がルーズソックスを見たらおそらく「えー! こんなゴムがのびきったみたいなソックスをわざわざ履いてたの〜?」と莫迦にするのだろう。まあ、それはいいが、いつかリバイバルブームとか言って、ガングロメイクとか、厚底靴とかがまたぞろ流行りだしたらどうしよう。
自分が生きているかどうかも判らない将来の流行に思いを馳せる。
ロフトで見かけた「極道」の毛筆文字入り扇子に心ひかれる。
ティム・ウィロックスの処女作『グリーンリバー・ライジング』(角川文庫)を読む。血と暴力と狂気にまみれた世界を描きながら、日本のバイオレンス物にありがちな陰湿さがないどころか、最後まで読み終えたときむしろ爽やかさすら感じるのは、元精神科医という著者の経歴のせいか。『ブラッド・キング』でズボッと音がするほどはまってしまって以来、ハードカバーが買えないために図書館で何度も借りたぐらい好きな作家なので、文庫化されたのは嬉しい。どうでもいいことだが、某チャットで使っているV:tMキャラのグライムズの名は『ブラッド・キング』からとったものだ。
「大天使のような風貌をして悪魔の如く書く」といわれるこの作家、カバー見返しの写真を見るかぎり、たしかに男前だ。ただ、鼻の穴が見えるほどの仰角で写真を撮るのはどうかと思う。なまじ色白なだけに、一瞥したときにまず黒々とした鼻の穴ふたつが視界にとびこんでくるのだ。ウィロックスというと真っ先に思い浮かぶのが鼻の穴といっていいほどそのイメージは強烈だ(ファンの方、失礼!)
嘘だと思うなら、本屋で『グリーンリバー』なり『ブラッド・キング』なりを手にとって裏表紙カバー見返しを見てみるといい。写真の鼻部分を指で隠してみると、それがどれほど存在感を発散していたか実感できるだろう。
なにしろ眉毛がないことなんて全然気にならないぐらいだ。
ここ3ヶ月というもの、秘密結社 NOD内の「なりきりチャット」Succubus Clubに入り浸っているのだが、関西在住の常連が集まってオフ会をすることになった。
いささか蒸し暑い大阪駅の改札で私は梅雨も近いというのに黒スーツという服装を待ち合わせの目印に選んだことをかなり後悔していた。しかし、参加される方々は私の性別も年格好も知らないのだからやむをえない。実のところ、こちらもチャット上のハンドルを知っているだけなので、会ってびっくりというのも面白いかと思い半ば故意にそうしたのだ。
中央改札は広いので無事会えるかどうか気を揉んだのだが、ほぼ定刻に美夏さん、micさん、案山子さんの順で到着。あと一人、サクリファスさんが参加予定だったのだが、風邪で欠席されたのが残念だ。
喫茶店を2軒はしごして、午後いっぱいWorld of Darkness談義に花を咲かせる。美夏さんは、実際に話してみるとチャット上で演じるマルカヴィアンキャラからは想像もつかない落ち着いた雰囲気の方でした。micさんは、チャットの会話からしてTRPGに相当慣れた方だなと思っていたらやはりその通り。WoD知識に精通していながら決して誇示しない姿勢がなるほど、あのキャラを演じている人だなあと納得がゆきました。案山子さんは、とにかく多弁でパワフルな人で、座をおおいに盛り上げてくれました(合宿帰りなのに今夜は飲み会とか。お疲れさまです)。
ところで、顔と名前を覚えるのが苦手なたちなので、三人ともハンドルでお呼びしていたのだが、傍から見ればちょっと異様だったかもしれない。
できれば今回来られなかった方も含めて第2回オフを開けたらいいなと思います。
明日はSuccubus Club大阪オフだ。楽しみです。
きょうのは下ネタ系なのでできれば食後に読んだほうがいいと思います。
弦楽五重奏団の練習帰り、終電近くで電車もわりと混んでいる。
大学生の二人連れがドアの付近でしゃがみこんでいた。
正確に言えば、一人は床に寝転がっていた。
電車で床にしゃがむ若者や、シートに寝転がっている酔客はよく見かけるが、床に寝転がっている若者とは珍しい。
ご想像の通り、どちらも泥酔している。
床に寝ている方は、電車の揺れに合わせて右に左に転がっているし、しゃがみこんでいる方は、口を押さえて苦悩の表情を浮かべている。あの表情なら私もよく知っている。
マジでゲロする5秒前。略してMG5と書くとバンド名みたいだ。
そして私はまちがいなくしゃがみ男の射程範囲内にいる。
しかし、降車駅はまだ先なのに移動するのも露骨なようで気が引ける。
ひとりで緊迫感に手に汗握る11時の特急。
母校の室内楽団の新入部員と喋っていた。
ある日、洗濯を終えて全自動洗濯機の蓋を開けたら、きれいに洗い上がって脱水を終えた洗濯物の上に「しゃもじ」が鎮座していたという。
ごはんつぶもしっかりついたままで。
「やっぱりしゃもじは洗えないんだなって思いましたー」とけろりと言う彼女に、将来の大物の片鱗を感じた。
たとえば、ある人がドイツ語で歌を口ずさんでいたとしよう。
それが、椅子に腰掛けた姿勢でとか、ぼんやりと公園を散歩しながらとかいう状況なら、様になる。まあ、歌う人の容姿にもよるが、格好良いといえなくもない。
しかし、その人が踊っていたとしたらどうだ。とたんに光景は喜劇の様相を帯びてくる。それが、サンバだろうがバレエだろうが、目撃した人はどうにも説明しようのない、なんだかなあ、という心持ちになるだろう。二人で踊っていたとしてもあまり格好はつかない。まして大勢で手をつないでマイムマイムなど踊っているところを想像してみるがいい。
人は、ときには格好をつけて、深刻ぶった台詞を吐きたがるものだ。
そして、深刻な台詞を吐こうとするとき、たいていの人は静止する。
「俺と結婚してくれないか」
たとえば、こんな一大決心の言葉を口にするとき、歩きながらとか、ブランコを漕ぎながらとか、とにかく身体を動かしている人はなかなかいない。せいぜいがところ、飲み物を口に運んだり、口を付けたグラスをテーブルに置くぐらいだろう。
とにかく深刻な台詞を吐こうとしているとき、踊る人はあまりいない。
踊りはあらゆる言葉を陳腐化するからだ。
それが証拠に、バレエでは台詞がなくマイムで物語を表現するではないか。どのような名バレリーナでも、「もう終わりにしましょう」などという台詞を、脚をすうっと高く挙げて爪先立ちで言ってしまっては、聞いた人は笑うしかない。それがどんなに美しいポーズでも、いや、美しい踊りであればあるほど、見る人の笑いは深まるのではないか。
もちろん、世の中にミュージカルというものが存在することぐらいは私も知っている。しかし、ミュージカルとは何かあるととにかく歌ってしまうものなのだ、というお約束をふと忘れて舞台を見たとき、なんだかなあ、という気分に私はなるのだ。シンクロナイズドスイミングの演技を見て、「綺麗ですねえ」と言いながらふと、選手の鼻にしっかりと装着された鼻栓を見てしまった時のように。
帰ってきてドアを開けたら隙を見はからったように蝿が一匹とびこんできた。
陽気のせいか妙にテンションの高い蝿で、あっちに止まったと思った次の瞬間にはこっちの鏡に飛んできたり、五月の蝿だけに五月蝿い。
涼しくなりましたか。はぁ、涼しいを通り越して寒くなりましたか。べつに、涼をとりたかったわけではなくて、一度でいいから文章中でこの駄洒落をやりたかっただけです。口で言ってもたぶん理解すらしてもらえないだろうし。
それにしても蝿というのはすごい。あんな、神経節がちょっぴり肥大した程度の脳味噌しか入らないような頭で、迫ってくる蝿叩きを認識し、空中でみごとな回避運動をやってのけるのだ。戦闘機パイロット顔負けである。あの反射神経を、たとえば最近開発されているという自動車の自動運転装置に搭載できないものか。
感服はするが、これからおやつを食べる予定なので、悪いが蝿には死んでもらおう。
とう。
どういうわけか腹を壊しました。
毎日大量の下剤を飲ませまくるというのは新手の拷問として使えないでしょうか。
駅からの帰り道、自転車に乗りながら独り言を叫んでいる人がいた。
はじめ、自転車に乗りながら携帯で喋るとは器用だなあと思いながら見ていたが、よく見ると両手でハンドルを持っている。見えない相手に向かって相づちをうっていた。
歩きながらとか、電車に乗っている時とかにひとりごとをいう人は珍しくないが、自転車に乗りながらひとりごとをいう人は初めてだ。
スーツで表を歩くと汗ばむ陽気。
履歴書の経歴欄を埋めるのに頭を抱えている。例によって、4枚入り中の3枚を書き損じて、いま机の上にあるのが最後の1枚だ。
傷だらけの現実と対決しています。
最近、市販のビタミン剤を飲みだしたのだが、瓶を見ると
召し上がり方/1日2粒を目安にそのまま水などと一緒にお召し上がりください。
と書いてある。ここで私は途方に暮れるのだ。
「召し上がる」は「食べる」と「飲む」の丁寧語である。そして「食べる」という語は通常、咀嚼して飲み込むことを意味する。「飲む」なら、咀嚼せずに嚥下することである。しかるにこのビタミン剤は色も形もラムネそっくりである。飲みこむのに支障のあるサイズでもない。
いったい、私はこれを薬のように飲めばいいのか。菓子のようにかじるべきなのか。もし、本来噛んで食べるべき錠剤なら、今の私のように麦茶で流し込んでいては栄養分が吸収されないような気がする。
しかし、メーカーに電話をかけて「あのう……おたくの○○というビタミン剤のことでちょっと聞きたいんですが……これは、噛んで食べた方がいいんでしょうか。それとも噛まないで飲み込んだ方がいいんでしょうか……?」と尋ねるのはあまりに情けない。
噛むべきか、噛まざるべきか、それが問題だ。
錠剤の瓶を前に、ハムレットのように考え込んでみる夕食後。
昼すぎからまた曇ってきて、空気に水の匂いがまじりだしたので、いつ雨が降りだすだろうかと窓から外を気にしつつ、半エッセイ半文体練習帳となりつつあるこの日記に今日は何を書こうかとネタ探しに頭を抱えていると、夜になってようやく天の底に穴があいたような豪雨になり、なぜか近所で非常ベルが2、3同時に鳴り出して、消防車まで駆けつける騒ぎになったので、ベランダの軒下で見物していたが、どうやらいつものように中学生の悪戯だったらしく、消防隊員らはすごすごと引き上げてゆき、しかし我々団地住民は非常ベルが悪戯で鳴らされることに慣れきっているので、たとえ本物の火事が起きようとも焦げ臭い煙が流れてくるまでは「また悪戯か」と聞き流すのに相違なく、住民の防災意識を著しく損なうという意味で、非常ベルの押し逃げというのは立派な犯罪であるまいかと、一銭の価値にもならない思考を巡らせているうちに、最前からの豪雨に加えて稲妻と雷鳴がものすごくなってきたので、へそを取られないうちにくわばらくわばらと唱えて部屋に戻り、さて落雷で停電したらまずいのでパソコンの電源を切ってコンセントを抜いておこうとパワーキーに手を、いや指をかけたところで電話が鳴り、受話器を取ると涼しげな水音が聞こえ、相手はいま我が家からほど近い某市からかけていると言うからさては雨音かと得心が行ったが、電話の主が途方に暮れた調子で尋ねるには、教授いまどこにいますか、今日は五重奏団の練習日ですか、と訊かれても私は自宅にいるし今日は練習日でもないと答えるしかなく、とはいえ最近まで東京でSEをやっていた胡弓弾きである彼が弦楽五重奏団の練習日をなぜ心配するのか説明してもらわなくてはおさまらないし、かといってちょうどひとつの長いセンテンスを書きかけていたところを中断させられるのは困るので、というのも読み始めたら最後、しまいまで読まずにいられないという実験的な文章をいちど書いてみたくて、句点で切るべき所をあえて読点でつなげるという冒険をしている最中、なぜなら私がかってに尊敬している翻訳者のひとりで柳瀬尚紀という人が言うには、ふつう人はセンテンスの途中でモノを読むのをやめるということはしないもので、句点に達しないでやめると損をしたような錯覚に陥るかもしれないそうで、したがって従量制プロバイダ経由でこのページを見ている人があれば申し訳ないが、とにかくそのようなひとつながりの長い文をキーボードから打ち込みながら、左耳と肩の間に受話器を挟んで、いったい何を途方に暮れているのか、と電話の向こうの胡弓弾きに訊ねると、私との共通の友人であるビオラ弾きと連絡をとりたいのだが、その男の携帯にどうしても電話が通じないらしく、そういえば今日は土曜日で、弦楽五重奏団の練習日は土曜日と聞き及んでいたので、同じメンバーである私の方にかければ、もしかしてビオラ弾きの現況が分かるのではないかと思ったと言われ、あやうく句点を使ってしまいそうになったがなんとか読点でこらえ、彼の携帯の電話番号が変わったのを知っているかと電話の胡弓弾きに訊くと知っているとのこと、そうするとこちらにもはや思い当たるふしはなく、私も件のビオラ弾きとは1週間以上顔を合わせていないのだと、まるで溺れる人がすがっているワラに火をつけるような罪悪感を、まったく理不尽に感じながら答えて電話を切った拍子にとうとう句点を打ってしまった。
どうですか。途中で読むのをやめずに一気にここまで来てしまいましたか。読者の視線を拉致しようとするささやかな試みでした。
半袖で出かけたら寒かった。
職安の帰り道に寄った店で、ついサングラスを買ってしまう。
サングラスを見た瞬間に、眼鏡をコンタクトに変えた17の理由の1つを思い出したからだ。
一度でいいからグラサンをかけて外出してみたい、というのがその理由だ。
眼鏡をはずすと何も見えない極度の近眼なので、普通のグラサンをかけただけでは日常生活が営めない。度付きサングラスというものは伊達や酔狂で誂えるにはあまりに高くつく。しかしコンタクトレンズならその上から普通のサングラスがかけられるではないか、といじましい打算から、長年の眼鏡生活をやめてコンタクトに変えたのだ。
買ってから気がついたのだが、我が家にはすでにサングラスが2個もあるのだった。買ってから純日本人的骨格の顔には似合わないと判明したミラーシェード。かけた人間をみな悪い中国人のように見せる緑の丸眼鏡(鏡を見ると語尾に「アルヨ」をつけて喋りたくなることうけあいだ)。
どちらも今日とまったく同じ動機で購入したことに気づいてしまい、少しへこむ。
眼鏡をコンタクトに変えた残りの16個の理由はまだ秘密。
夜更けに駅前の商店街を歩いている。通りに面した店々は軒並みシャッターを下ろし、アーケードを行き来する人もまばらだ。
道の真ん中に、大学生風の女の子が一人で立っている。連れを待っているようにも見えず、酔っているようにも見えない。ただぽつねんと立ちつくしているだけだ。しつこいようだがここは商店街であり、彼女の両脇には靴屋と電気屋が建っている。ついでにいえば、飲み屋やゲーセンが集中しているのはここから道二本ほど北のところだ。
要するに、その女の子はひどく場違いなところに立っていた。
突然、彼氏に別れ話をもちだされたのかもしれない。あるいは、突発性健忘症にかかって駅に行く道を忘れたのかもしれない。しかし、彼女の表情からは、夜中にそんなところに突っ立っている合理的な理由はまったく読みとれない。ただただ、茫然としている。何も見ていない。
通行人はみな見て見ぬふりをしている。私も無関心を装って通り過ぎるが、変なものウォッチャーの目は見逃さない。そして日記のネタにする。
何度間違えてもカタルシスとカタストロフの違いを覚えられない。
しかしそういう単語を日常会話で使う生活っていったい。
捨てるのに気を使う書類が増えてきたので、シュレッダーを買うことにした。
家庭用の小型な機械で、上から紙を差し込むと「みゅいーん」と音を立てて原形をとどめず切り刻まれた屑が透明プラスチックの容器に落ちてくる仕組みだ。さっそくダイレクトメールなどをかたっぱしから裁断している。みゅいーん。みゅいーん。
さっきからわざわざゴミ箱を漁ってシュレッダーにかけられそうな紙を探していることに気がついた。私は紙が切り刻まれる様を眺めることにカタルシスを感じているらしい。平たくいえば、なんとなくすっきり楽しい気分になれるわけだ。みゅいーん。
これはストレス解消グッズと言えるかもしれない。いやなことがあったら、不要な紙をかたっぱしからシュレッダーにかける。嫌な上司の似顔絵を書いてシュレッダーにかける。上司を切り刻んだら犯罪行為だが、上司の似顔絵を切り刻むのはいっこうに問題ない。最近のシュレッダーは紙を縦横に切り刻んでくれるので、破片を組み立てて解読される心配も少ない。部屋も片づき一石二鳥だ。
みゅいーん。
ApocalypticaのCDをかけながらIn Nomineの翻訳をしているのだが、隣の部屋で母がAM放送の演歌を聴いている。音量が大きいのでこちらの部屋まで丸聞こえだ。
ヘヴィメタルにのって「すばる」が流れてくる。
眩暈がしてきた。
パンに青かびが生える季節になりました。みなさんもご用心あれ。
お昼に、カルボナーラソースが缶半分残っていたのを、いいかげん始末しようと思ったのだが、最近、昼飯に麺類が続いたので、スパゲティは食べたくない。まあ、炭焼き何とか言ったって、基本はホワイトソースだから、冷やご飯の上にかけてオーブントースターで焼いたらドリア風になるはずだ。具も入っているしちょうどいいしな、と考えて、やってみた。
死ぬほど不味かったが、他に食糧がなかったので意地になって全部食べた。
理論の敗北である。
夕飯後です。まだきもちわるいのでキャ○ジンを3錠飲みました。
別にカルボナーラソースに責めはないのだが、カルボナーラは当分見るのも御免だ。うう。
こんなに胸焼けするのは、子供のころ好きだった卵かけご飯を食べ過ぎた時以来である。そういえば、カルボナーラには卵が入っているから、あれをご飯にかけるということは、ある意味、卵かけご飯に近いのだろう。しかも牛乳・生クリーム入り。卵かけご飯に、牛乳と生クリームをかけて食べる……そりゃあ、きもちわるくなるはずだ。書いていてもこみあげて(以下自主規制により検閲削除)
10時半です。おさまってきたかな。
ご飯の変な食べ方としてたまに聞くのが、コーラをかけるというものだが、何故そんなことを思いついたのだろう。どうひいき目に見ても、聞いたり、想像したりするだけで食欲をそそられるものとも思えない。実際にご飯にコーラをかけてみたとしても食べるまでに相当な勇気を要するのではないか。
しかし、ご飯にコーラをかけることを考案した理由を聞くことができたとしたら、案外、そこにご飯とコーラがあったから、というような至極単純なことなのかもしれない。
「結婚して!」と迫られる夢を見て、冷や汗びっしょりになって目が覚めた。
あまりにリアルな夢だったので、起きてからも5分くらい夢だと気づかずに、結納とか指輪とか式場とかの心配をしていたぐらいだ。
こんなことを書くと誤解されそうだが、別に私は現実に結婚を迫られて冷や汗をかくような悪さをしたわけではない。だいたい、もとからそんな相手はいない。
飛び起きるほど怖くはないがじわりと嫌な悪夢もある。たとえば、プールで泳いだ後で更衣室に戻ってきたら何故か着替えが消えている夢、これは文字どおりじっとりと嫌だ。和室で待たされているのだが、どうも座布団の座り心地が悪いと思ったら、じつは座布団が生きている蛇でできていた夢。蛇の夢はめでたいというが、体感的にはちっともめでたくない。目が覚めたとき、うすらぼんやりとイヤな気分になるだけだ。怖い夢なら一発で目が覚めるが、うすらぼんやりとイヤな夢は寝覚めがすっきりしないからよけいにたちが悪い。
夜、雷が鳴ってます。
朝早くラジオをつけたらちょうどグループSNEの安田均がインタビューされているところだった。休日で家族はまだ皆寝ているので、新聞読みつつ昨日の残り物で朝飯を食べながら黙々と聴く。そういえば「孤食」という言葉はついぞ定着しなかったな。
世の中にはリストカットとか言って手首を切るのが習慣化してしまい、傷口が化膿して困っています、なんて大変な人もいらっしゃるが、自傷行動までいかなくとも、痛いと判っているのについやってしまう行為は人間だれしも一つや二つはあると思うのだ。
転んでタンコブや打ち身をつくったときに、患部をそうっと押してみて、「あ痛っ」と顔をしかめた経験はないだろうか。さかむけを手で剥くのに夢中になって、皮と一緒にちょっぴり肉まで剥がしかけ、涙した人もきっといるはずだ。冬場の空気が乾燥しているときに、唇がひび割れて皮がむけていると、むしりたくてうずうずする、と言う人もいる。その後でチゲ鍋を食って、唐辛子がしみると七転八倒していたが、たぶんそんな状態では刺身醤油だってしみたはずだ。いや、私はそんなことを書こうと思っていたわけではなかった。
できたてのタンコブを押さえたら痛いにきまっているのである。さかむけはハサミで切れば痛くないし、唇が荒れているときに辛い物は控えるべきだ、そんなことは一度失敗すれば判るはずだ。しかし、痛いとわかっている行動をわざわざ繰り返す理由はなんなのだろう。ばかなのか。
私は、人がわざわざ痛いことをして「あ痛っ」と顔をしかめた直後に、ほんの一瞬うかべるあの表情にその鍵があると睨んでいる。
きまり悪そうなふりをしてその実、なんだか充実したような、妙に満足げな顔である。
もしかしたら、鼻をかんだ後にわざわざティッシュを広げて眺めている人とか、ゴキブリ○イホイを捨てる前につい中のゴキブリを見てしまう人の心理に共通するものがあるのかもしれない。
というものを一度でもやったことがある者なら、あれが通信講座を受ければ誰でもできる気軽な副業、なんて宣伝文句は大間違いであることが判るだろう。
ことにTRPGのセッションのテープ起こしなどは最悪だ。話が複数平行して進んでいたり、誰が何を言っているか判らなくなって何十回も同じ場所を聞き返すこともざら。
昔は、一日のセッションのリプレイづくりに一ヶ月を費やし、我ながら莫迦みたいだと思ったものだ。
ところで、ひょんなことからチャットでTRPGセッションめいたものをやったので、ログを編集することになった。あらかじめ発言がデジタル化されているというありがたみをつくづく思い知った。
編集に半日。HTML整形に半日。編集も、発言があらかじめ書き言葉になっているだけにあまり書き加えなくて済む。
それにしても、音声認識でテープ起こししてくれるパソコンソフトが出たら、喜んで買うのになあ。
職安帰りだよ。
駅前ですれ違った男は、阪神タイガースのユニフォーム風シャツの首から、立派なロザリオをさげていた。
単なるアクセサリーというより、教会で祈祷に使っていてもおかしくないような、木製の数珠がついた本格派の十字架である。
やはり、彼はクリスチャンなのだろうか。阪神を優勝させてください。アーメン。とか言っているのだろうか。
妹が彼氏をうちに連れてきた。いわゆる「結婚を前提としたおつき合い」の申し込みというやつである。相手は新卒で今年の四月から働きだした、ほやほやの会社員だという。
話を聞いたとき親父は「まだ生活基盤も出来てない相手と……」とか何とかぶつぶつ言っていたので、玄関にたちはだかって彼氏を一発殴るぐらいはするかな、と心密かに楽しみにしていた。ところが、彼氏と向き合って座った親父の第一声は、『話は娘からだいたい聞いている。しっかり面倒みてやってくれ』だったので、気の毒な彼氏はおそらく用意してきたであろう台詞がまったく無駄になって、口をぱくぱくさせていた。
10分ほどぎこちない会話が続いただろうか、場の空気に耐えられなくなったらしく、親父はやおら立ち上がって言った。
「じゃあ、年寄りはじゃまだろうから、あとは若い人だけで……」
無意味に同席していた私だが、この時ばかりは「ちょっと待て!」と親父にハリセンをかましたくなった。見合いじゃないんだからよう。
昔ながらの、ペン先の金属ボールが回転してインクを紙面に塗布する、あれだ。インクが無くなると芯だけ交換してまた書ける(もっとも私はそこまで使い込む前に、たいてい、なくしてしまう)、あのボールペンを、私はこよなく苦手としている。
まず構造上やむをえないことだが、線の初めはインクが薄くなる。普通なら神経質になるほどの問題ではない。しかし、私が書く文字は平均3mm角の極小だ。インクの出が悪いボールペンだったりすると、字の一画ぜんぶがかすれて見えなくなることもままある。ただでさえ、考える速さに書く速さが追いつかなくて苛々するのに、こういう些細な修正に時間をくわれるともっと苛々してしまうのだ。
だからといって、インクが出すぎるボールペンもよくない。書いているうちに余分なインクがペン先に溜まって、放っておくととんでもない所で線が太くなってしまうから、ティッシュで拭きながら書くのだが、そのうち忘れてやっぱり奇妙な部分が太くなった文字ができる。
なんとかならないものだろうか。それとも私の書き方に問題があるのだろうか。他の人を見ていると、それほど頭を悩ませていないように見えるが。
解決策が思い当たらないので、最近はもっぱらピグ○などの極細ペンを代わりに持ち歩くようにしている。
よく、ひとりごとを言いながらテレビゲームをする人がいるが、傍から誰かが見ている時しかひとりごとを言わないのはなぜだろうという話を前にもした。
ひとりごと【一人言・独り言】(1)相手がいないのにひとりでものを言うこと。人に聞かせるというわけでなく、ひとりで無意識に言うこと。また、その言葉。独語。(大辞林)
この定義からすれば、たとえ人が見ていようがいまいが、ゲームをする人はひとりごとを呟いておかしくないはずだ。しかし実際には、傍観していた者がよそを向いただけで、彼らのひとりごとはぴたりと止まってしまう。
ひょっとしたら、彼らは他人と会話したいのかもしれない。しかし、本格的に人としゃべりだすとゲームをする手がおろそかになってしまう。そこで、故意にツッコミを入れる余地のあるひとりごとを発することで、誰かに話しかけてもらって、疑似会話を成立させようとするのかもしれない。
この仮説の問題点は、たとえば「うひゃほう」とか「よいしょ」と呟かれた場合、傍観している人は、どのようにツッコめばいいのか困ってしまう、ということだ。
書類を片づけていたら、去年の産経新聞の切り抜きが出てきた。日付は判らない。
ベネチアで開かれた国際的な美術展の話だ。
なんでこんなもの、とっておいたんだろうと思ったら、傍線が引いてあったよ。
大流行のビデオ・インスタレーションで…(中略)…ポーランドの女流作家カタリーナ・コジラの「男達の公衆浴場」は、作者が男装して(胸毛や性器を付けて)男湯に侵入し、男たちを盗み撮りしたもので、強烈なインパクトを与えていた。
ええと、質問。胸毛やらナニやら、付けるのは判りますけど、乳はどうしたんですか、コジラさん。盗撮って、日本では犯罪ですけど、ポーランドではどうなんですか。目フセ付けたら大丈夫とか?
見てみたいね、「男達の公衆浴場」。いや別に男の裸は見たくないけど、芸術作品といわれる盗撮ビデオって、AVとどの辺が違うのか、知りたいじゃないですか。だいいちコジラさんの男装姿が見てみたいよね。乳はどうやって隠したのか。
無い物を付けるのは簡単だけど、有る物を隠すのは大変だよ。ハゲヅラだってすぐバレるんだから。
コジラ女史は優秀賞を受賞したらしいよ。でも、もし男が女装して女湯を盗撮したら芸術作品になったかな。たぶん犯罪だよね。っていうか、すでに商業作品としてどこかで売っているような気がするよ。きっとね。
下品でごめん。
夜道を歩きながらひとりごとを言う人は薄気味悪がられるが、テレビゲームをしながらひとりごとを言う人を見てもみな平然としているのはなぜか。
いま、ちょうど妹がうちでプレステをやっているので、そのひとりごとを拾ってみよう。
「いてっ」
「痛い痛い痛い」
「ほっほー」
「っつうか、ウザいよ」
「うひゃほう」
「よいしょ」
同じことを、例えば電車の中で口にしたとしたら、冷たい視線が集中することはうけあいだ。しかしゲーム画面を前にしているかぎりよほどの奇声でも許容されてしまう。
この種の人間はなぜか、そばに誰もいない時は黙々とゲームをやっていることが多い。他人が同じゲーム画面を覗き込んでいるときに限り、ひとりごとを呟くのである。
なぜだろう。
エントロピーの法則に抵抗を試みる。
無駄と判っている戦いは極力しない主義だが、積み上がった本の山に阻まれて自室の机にたどり着けないという現状をまのあたりにしては仕方ない。
しかし、私の知人には本棚から溢れた本を床に平たく敷き詰め、その上で生活しているという剛の者もいる。私などまだまだ修行が足りない。
頭痛と闘いつつエリエット・アベカシス『黄金と灰』を読み終えた。何というか、絶対悪をめぐる神学的考察が、かろうじて破綻寸前のところで推理小説の形を維持しているという印象を受ける。
そう、絶対悪である。価値観などという相対的なものを嘲笑し、理性による理解を拒否する究極の悪がここにある。半端なファンタジー小説やTRPGで描かれる「悪」だの「闇」だのいうものがいかに人間くさい陳腐なイメージであるかを実感させられてしまう。
読んでいる間に、なぜか、子供の頃を思い出していた。どんな悪さをして叱られたのか思い出せないが、親父が「なぜあんなことをしたんだ」と問いつめる口調だけはよく覚えている。幼い私は、動機を説明できないもので、黙ってうつむいている。「わからない」と答えてみる。親父は「理由もなくてするわけがないだろう」と、はぐらかすな、とさらに腹をたてる。私は、とにかく、ああいうことをしてはいけないのはよく判ったから、もう解放してほしい、と思うのだが、それを口にするとますます親父が激昂するのが判っているので黙っている。しまいに親父は「黙っていれば説教が終わると思ってるんだろう。親を莫迦にして」と吐き捨てて自室にひっこむ。だけど、と子供心に私はつぶやく。ほんとうに自分でも何でそんなことをしたのか判らないんだ。いや、判っているけど説明できないんだ。
当時を回想する、すこし歳をとった私には、その「動機」にしいて言葉を与えることができなくもない。ないが、やはりそれを聞いたら父は怒っただろう。
魔がさした、だなんて、子供が言っても気味が悪いだけだ。
頼まれてコンベンションでマスターをする。自分がいわゆる「古参プレイヤー」になりかけていることをむりやり自覚させられて複雑な気分である。
電車の車窓からちらりと見えた変な看板。
コミュニケーションプラザ『びびる』
どうやら、ビルの名前らしいのだが、ビルを「プラザ」と呼ぶことの是非はさておき、『びびる』は、まずいだろう。かなり。「びびって」しまってはコミュニケーションどころではなくなってしまう。その『びびる』にしても、スペイン語のvivir(英語のliveと同義、ビビールと読む)と「ビル」をこじつけたのか、その他の複雑怪奇な語呂合わせなのかしらないが、電話がかかってくるたびに「はい、『びびる』です」と答えなくちゃならない者の身にもなってみたらどうだ。そんなビルに入居した会社は、封筒やら名刺やらに『びびる』と印刷しなければならず恥ずかしいではないか。
けれど私は思う。一日でいいから、「コミュニケーションプラザ『びびる』」のテナント会社で働いてみたいものだ。電話で自分の会社の住所を尋ねられて、私はこう答えるだろう。
「……コミュニケーションプラザ『びびる』3Fです。ひらがなで『びびる』です……ええ、ヤクザにびびる、とかいう、あの『びびる』と書きます」
その瞬間、受話器の向こうで相手が見せる反応が知りたい、と思うのだ。
古本屋で昔懐かしい『ナイトメア・ハンターTRPG』が100円で売っていた。ラッキー。
ちょっと前まで、夜道を大声で独り言をいったりニヤニヤ笑いながら歩いている人がいたらかなり警戒を要したものだが、最近そうでもなくなったのは、もちろん携帯電話が普及したためである。しかし、そう簡単に安心してしまっていいのだろうか。その人が本当に誰かと通話しているという証拠がどこにあるのか。そもそも、その人が耳に当てている、それは本当に携帯電話なのだろうか。羊羹や木炭でないと誰に言い切れるのか。しかもブランドにこだわって、備長炭だったりしたらどうするというのか。
なんと、今朝未明で4000hitである。2月に再開してから3ヶ月足らずで3000hitを叩き出した計算になる。休止前の半年は何だったんだ。やはり、日記が三日坊主なのがよろしくなかったのか。そういえば、この日記は再開準備中から書き溜めてきたから4ヶ月続いている。私にとってはミニ奇跡だ。
昨日、病人でもないのに熱の話を書いたせいか、アベカシスの『黄金と灰』の難解さに知恵熱が出たのか、さっきまで微熱が出て頭が割れるように痛かった。小人さんが頭の中でトンネル工事をおっぱじめたような響きようである。熱はたいしたことないから解熱作用のあるバファリンはやめておこうと思い、ボルタレン(鎮痛剤)を飲んで仮眠していたところ、電話がかかってきた。妹が出て、受け答えする調子から察するに、どうも電話の主は私の古い友人であるらしい。
「……○○(私の本名)ですか? あの、いま、床に転がってます。起こしましょうか?」
ちょっと待て妹。いくら相手が数年来の気心の知れた相手とはいえ、寝てるとか、仮眠をとってるとか、もっとほかに言い方があるだろう。たしかに私が布団も毛布も出さずに、部屋の床に死んだように寝転がっていたのは認めるが、あれじゃ、私が死体になっていてもおかしくないじゃないか。渋々私は自発的に起きて電話を代わった。
「もしもーし、転がっていた○○だよ」
「おう久しぶり。○○って何か俺が電話したときにはいつも『転がってる』よな」
案の定、旧友の声は笑いを含んでいる。
「そりゃ電話してくるタイミングが悪いんだよ。なんでいつも私が寝てる時にかけてくるかね」
口では悪態をつくが、私も笑うしかない。
何といっても、転がっている人が怒っても、いまひとつ迫力に欠ける気がするからだ。
もちろん、これを書いている今は、ボルタレンがよく効いて頭痛は治まっている。
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