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2000年7月 |←次の月|前の月→|最新の日記に↑| |
ことの発端は、朝から家人とちょっとした口論をしたことだった。
むしゃくしゃしながら身支度を済ませ、ふと腕時計を見ると3時の位置から動いていない。高校時代から使い続けている古参兵なので、古い機械の故障に対する一般対応として、ねじを引っぱったり回したり果てはテーブルの角で叩いたりしたがぴくりともしない。どうやら電池切れらしいのだった。
しかたなく別の腕時計をはめて、さて出かける段になって、ふと部屋の時計でなく腕時計の方で時間を見た。短針は5時の位置を指していた。わあ大変だ、ぐずぐずしてるうちに夕方になっちゃったよ。なんてばかなことを言っている場合ではなかった。その腕時計もまた、電池切れで止まっていたのである。
私は胃の底でふつふつとわけもなく怒りが煮えていくのを感じた。なにもこんなタイミングで電池が切れなくてもいいじゃないか。しかも二つとも。他のを借りようにも、家人は先刻の口論ですっかりへそを曲げて、私に劣らず、ぶすっとした顔で身支度しているのだった。とてもじゃないが、ものを頼める雰囲気ではない。
まあ、仕方ない。腕時計は仕事帰りにでも時計店に持っていくことにして、今日は携帯の時刻表示を頼ることにしよう。腹立ちのあまり思わず忘れてでかけるところだった。思い出してよかった。
と、充電器から携帯電話を取り上げたとたんに、こともあろうにそれはバッテリー切れのアラームを鳴らし始めたのだ。古い機種でバッテリー寿命も近いらしく、最近、いやに早く電池が消耗すると思ってはいたのだが、何も今、よりによって今、だめにならなくてもよさそうなものじゃないか。腕時計が二つとも駄目になって、おまえの時計表示だけが頼りだというのに、こんな様子では来年の契約更新を考え直すぞ、つってプロ野球の外国人選手じゃないんだから。とにかく、悪意に満ち満ちたこの偶然の重なり具合に、私は錯乱を起こしそうなほどむかっ腹をたてて家を出たのだった。
イヌの嗅覚は人間の100万倍も鋭いという。
実験によって、訓練されたイヌなら飼い主が通った跡を、草の上だろうが、砂、岩、舗装道路の上だろうが、しかも何時間も経過した跡でも、たどれることが証明されている。人間の足の裏から汗とともに靴底をとおして滲み出てくる、酪酸の分子わずか数個を嗅ぎ分けるのである。
――ライアル・ワトソン『ネオフィリア』
しかしここで注目すべきはイヌの嗅覚の鋭さではない。
人間の足がかいた汗が、靴底をとおして滲み出てくるという事実である。
なにしろ今どき靴の底といえばゴムかプラスチックであり、どちらもふつう水を通さないと思われている。だが、汗は靴の裏にまでしみ通るのだ。しかし例えば、若い女性がよく履いている厚底サンダルならどうだろう。一時期、底が20cmはあるのではと思われる、花魁道中で花魁が履くぽっくりみたいなのを履いてる娘さんも散見されたものだが、ああいう靴の底にも、やはり酪酸分子が汗とともに滲み出てくるのだろうか。
訓練されたイヌは厚底サンダルを履いた飼い主が通った跡を追跡できるのか。
ぜひとも実験してもらいたいものだ。
それにしてもセミでさえ辛抱たまらず木陰にいるようなこの炎天下だというのに、公園のベンチでいちゃついているカップル、あれは果たして人間なのか。人間なら、あんなにぴったりと胸やら肩やら腰やらを密着させて蒸し暑くないはずがないのだ。温度を感じる神経が欠落しているのか。とにかく暑さに対して超人的な耐性を持っているとしか思えない。夏のがまん大会に出ればかなりいいところまでいくのではないか。
と書いて気がついたが、そもそもがまん大会というものを、私は見たことがないのだった。どこかで開催されると聞いたこともない。そのくせ、言葉だけは知っているのだ。いったい、どこに行けばがまん大会を見られるのか。どんなルールで勝敗を決めるのか。開催されているのをちっとも見かけないのに、なぜ知名度が高いのだろう。
その光景を見たこともないのに、なんとなく、夏に屋外でストーブを焚いて、厚着して汗だくになっている競技者の姿を想像するのだ。セーターの上にどてらなんかを羽織ってにらみ合う決勝戦の両者。むろん顔からは滝の汗だ。クマゼミが鳴く中(これはやはり暑苦しさをあおるクマゼミの声でなくてはならない)、やがて片方がおもむろにぽつりと言うのだ。
「まいりました」
それで勝負が決するのである。どうも競技としては華やかさに欠ける。これではまるで囲碁将棋の対戦だ。勝者が胴上げされるとか、ビールやシャンパンを浴びせて祝うとか、そういう雰囲気とはほど遠いものを感じる。
だからなのか。だから「俺、がまん大会で優勝したことがあるんだ」と話す人に出会ったことがないのか。「高校の時、剣道で地区大会に出たよ」とか、「ウルトラクイズで羽田空港まで行ったんだ」とかいう人には会ったことがあるのに、こと、がまん大会になると、出場経験者にすらお目にかかれないのはそういうわけか。
「がまん大会」は存在するのだろうか。真夏でも、真冬でもいい。大会の現場で我慢する人の顔を私は見たいのだった。
近所で大きな祭りがあるせいで、電車内にゆかたの女性率高し。眼福哉眼福哉。
鼻に関してはお子様体質をずっと引きずっていて、暑かったり睡眠不足だったりすると、すぐ鼻血が出てしまう。何かすけべな事を考えていたんだろうとよく揶揄される。たしかに私も木石ではないので、からかわれてもしかたないような意味で鼻血を噴いたことも一度や二度ではないが、まあだいたいにおいて私の鼻血の原因は、色気のない話でなんだが、疲労である。
だがそんな言いわけを書こうとしていたのではなかった。問題は出た鼻血の後始末だ。
ひとはたいてい、鼻血に関しては一家言をもっていて、周囲で鼻血を出した人がいると、よってたかって自分の処方箋を披露したくなるようだ。上を向いて鼻をつまめだの、いやそれは良くないから下を向けだの、鼻の付け根を冷やせだの、首の後ろを叩けだの、その気になれば『鼻血と民間療法』という本が一冊書けるのではないか。中でも傑作だったのが「襟首の後ろの毛を引き抜く」というものだが、これを教えてくれた当の本人が鼻血を出して治療中の現場をまだ見たことがないので、効果のほどは定かではない。しかし、おそらくこのまじないを実行している人間は、かなり、ばかものに見えるだろう。だって毛を引き抜くんだぜ。襟首の後ろの毛と、鼻血と、どんな因果関係があるというのだ。
いろいろな人に鼻血の対処法を指南されてわけのわからなくなった結果、私が行き着いたのは「単に、鼻にティッシュを詰めて鼻のつけねをつまむ」という原始的な手当なのだった。しかし、ここで問題が発生する。鼻血を出したのが自宅ならいい。しかし、職場とか、外出先で出血した場合は、単に鼻の穴にティッシュを詰めればいいというものではない。
鼻の穴に物を詰めると、人の顔はかなり間が抜けて見えるのだった。それがティッシュならなおさらである。ティッシュをぎゅうぎゅう詰め込んで、小鼻が膨らんでいたり、あるいは切れっ端がちょろりと鼻の下から覗いていたりすると、素材がどんな美男美女だろうと、それだけで笑いを誘ってしまうのだ。だから一見鼻に栓をしているのが判らないように、ティッシュの分量には細心の注意を要する。少なすぎても、ティッシュが吸い取れなかった鼻血が溢れ出してしまい、栓をする前よりもっと収集のつかないことになるのだった。
それにしても鼻に物を詰めるのは、なぜこんなに可笑しいのか。
同じ穴でも耳に物を詰めているのは、面白くもなんともなく、ただ外部の音を聴きたくないという意思表示にしか見えない。ちょっと気の利いたコンビニに行けば、イヤーウィスパーなどどいう名前で耳栓を売っている。口に物を詰めるのは、面白いというより犯罪かSMを想像させる、なんだか淫靡な雰囲気になってしまう。人体には九穴というように他にも穴があるにはあるが、まあ一般的に、物を詰めて笑いをとれるのは、鼻だけだ。
思い浮かべてみるとよくわかる。両耳から赤鉛筆が2本突き出している人(おそらく手元の競馬新聞の勉強用だろう)と、口から赤鉛筆が2本突き出している人(おそらく鉛筆の尻をかじる癖があるのだろう)と、鼻の穴から赤鉛筆が2本ぶら下がっている人を。
どれが一番笑えるかは自明だろう。
トンネルの向こうに小さな光が見えた気分。
ただしその前では道路に大きな陥没があったりするが。
ちょっといいことがあったので、缶ビールを買って一人宴会。
月刊誌の「○月号」という表示は、たいていの人間にとって、同じ物を2冊買わないための区別以上の意味をもたなくなってきている。
なぜなら多くの月刊誌は、表示されている月より一月早く出るからだ。3月に4月号が出て、4月に5月号が出る。理由はよく知らないが、それはまあいい。2月に新年号なんて出されても困ってしまうし。
だが、師走に書店に行って、彩りもめでたそうな新年号のパソコン雑誌を手にするとき、なんとなく来年の楽しみを減じてしまうような気がするのは私だけだろうか。いや、たぶん、弁当を食べると好きなおかずを最後にとっておくたちの人間なら、この心持ちを理解はしてくれるのではないか。
しかし、ひと月早く出る月刊誌の編集者のことを考えれば、我々読者はまだましなほうだ。彼らは、常に2ヶ月先の雑誌を作り続けなければならないわけである。2月に、3月に出る4月号の原稿を書き、11月には、12月に出る新年号の企画にもう取りかかっているのだ。1ヶ月先に出る本のために記事を書いているのに、それが出たとたんさらに1ヶ月先に拉致されてしまうようなものだ。
昔はもっとひどくて、2ヶ月先の月号が出る雑誌もままあったが、減った理由が判る気がする。書いた記事が3ヶ月も先に拉致されるようでは、書く方もたまらないだろう。
小5の夏だった。
読書感想文のネタ本を探しに大きな図書館まで出かけた、その帰りのことである。
炎天下、ぼーっと踏切待ちをしていると、見知らぬ男にいきなり腕をつかまれた。
「℃○♀⊃∂‡! ⇔0!」
とても明瞭な口調だが、何を言っているのかさっぱり判らない。深夜の寝言に似ている。ぽかんとしていると、男はなおも何か喚きながら、私を引きずって歩き出そうとする。
遮断機がカンカン鳴っている踏切の方へ。
私も負けじと喚き、もがくが、大人の力には勝てず、ずるずると遮断機の方へ引きずられていく。カーブを曲がって電車が近づいてくる。真剣にマズイ。生後10年あまりで、しかも頭のおかしい男と無理心中する、死体はマグロ確実、それはさすがにとてもイヤだ。
ありがたいことに、近くで工事をしていた人が、私の尋常でない嫌がりようを察して駆けつけてきた。
「おまえ何してるんだ! ちょっと来いっ!」
「℃○♀⊃∂‡!」
「いいから警察まで来い!」
彼は暴れる男の襟首をつかんで交番の方へ引きずっていった。
私は、別に怪我をしたわけでもないので、次の電車に乗ってさっさと帰った。
今でも、夏に踏切の前に立つと、たまに思い出す。
終業時間まぎわに面倒な仕事が舞い込んで、肩をごきごき鳴らしながらの帰り道、ビルの隙間から見上げる空を、灰色の雲が凄い速さで流れていくのを見た。
そういえば、しばらく空を見上げていない。
あの上に成層圏があって、電離層があって、暗い宇宙空間があったりするのだ。
あの雲を形成している蒸気は、ここから見えもしない海から来ているのだろう。
不意に、世界の広さを思い知る。
シャンプーの詰替用を買ってきた。感謝期間とやらで25%増量になっている。しかし、瓶のほうは25%増でない時期に買ったような気がするので、やばいかな、と思いながら詰め替えたら、案の定、あふれた。
怒りゲージ25%増。
某サークルにV:tMの出張ST。卓を立ててみれば、女性プレイヤーばかりのハーレム状態だったので顔に出さずに歓喜する。オリジナルのキャラクターコンセプト作成チャート『スーパー俺表』はどこへ行っても大変好評だが、少々ギャグ要素が強すぎるようで、 根本から練り直そうかと思う。真面目な『俺表』も実は作ってあるのだが、いま一つ面白くない。どうしたものか。
一つだけ名誉のために弁解しておきたい。セッション終了した瞬間、鼻血を噴いたのは、決して不埒な想像をしたせいではなくて、単に、寝不足と暑さによるものである。
子供が部屋の家具や自分の所有物にめったやたらとシールを貼りたがる衝動は、いったいどこから来るのだろう。一種の麻疹に似ていて、自分の中でブームが去ったとたんに、猛烈にシールを貼ったことが恥ずかしくなったものだ。そうして一所懸命、雑巾やベンジンでシールだらけになった箪笥を拭きながら、数年前の自分を恨むのだ。なんで、こんなもの、貼ったんだよ、自分。
今日、駅前の駐輪場で、黄色に塗られた自転車を見かけて、そのことを思い出したのだった。
どうも、最初から黄色だったようには見えない。鮮やかな黄色のペンキをこてこて塗った、手作り感溢れる表面仕上げだった。一面にパンダが描いてあるが、白と黒だからかろうじて猫ではなく熊なのだろうと判別できる程度のすばらしいヘタウマ加減である。そのうえ、ご丁寧に、その自転車には
『ジャイアントパンダ号』
と後輪カバーに大書してあるのだった。
持ち主がパンダブームを脱したとき、この自転車はいったいどうなるのか。
しかし、それ以上に気になるのは以前見かけた車のことだ。仮にEVA車と呼ぼう。なぜならこの車、速度計の単位が「%」になっており、その中央にはオレンジ色のカッティングシートで作られた「シンクロ率」の文字か貼り付けられているのである。
他にも燃料計は「活動限界まであと20リットル」、サイドブレーキには「拘束具設置/解除」等の文字があり、その徹底振りは他に類を見ない。
特にシンクロ率と機体の速度が比例している辺り肯けるものはあるが、いずれにせよ、それを乗り回す運転手が、かなりばかだと思われることには変わりないのだった。
EVAブームも去った今、あの車はいったいどうしているのだろうか。
ゆうべ更新しそびれたので2日分のアップです。
言うべきことがなくて沈黙する時と、気の利いた言葉が見つからなくて、何を言っても相手を傷つけそうだから沈黙する時の、客観的な差異を分けるものは何なのだろうと思う。
鞄を壊した。今年に入ってこれで二度目である。
例によって原因は重い物の入れすぎで、肩から掛けるベルトの根本がちぎれたのだった。しかも通勤途中に。
片手でちぎれたベルトを持って、だらしなく垂れ下がる鞄を持ったまま、電車の中で私は途方に暮れた。このだらしなさは、うっかりゴムのゆるい靴下を穿いて外出してしまった時、いや、紙袋の底が抜けたときにも匹敵する。底の抜けた紙袋ほど、だらしなく、役に立たず、持つ人をばかに見せるものはない。人は、もはや中身の荷重を支える役にたたない紙袋の底を片手で押さえ、そうすると荷重を吊り下げる用をなさなくなる手提げ部分を律儀に空いた片手で持って、代わりの袋が見つかるまでその情けない格好で歩くしかないのである。持ち手がちぎれるといえば、よくティッシュペーパーの特売で、5箱一組とかでビニールパックされている一番上についているあのビニールの取っ手、あれがちぎれるのも悲惨だ。ああ、想像しただけでぞっとする。
こんな局面をスマートに切り抜けられる人間がいたとしたら、私は本気で尊敬する。いや本当に。
テレホタイムまで寝るまいと頑張っていたが、気がついたら……起きていた。
弱点とは隠すものだと思っていたが、しかし、現実を見渡すと、弱点をカミングアウトしている人がいかに多いことか。そして、弱点がさらけ出されているにも関わらず、それをつつかない紳士的な人々のいかに多いことか。
例えば、「機械に弱い人」だ。
ラジオの電池の入れ方が判らないと言っては、「私、機械に弱いから」と言う。すごいのになるとビデオのGコード予約の仕方が判らないと言って、他人に打ち込ませる。そういう人間に限って「最近の機械は操作が難しい」と文句を言う。Gコードなんて、番組表の数字を打ち込んで予約ボタンを押すだけじゃないか。それ以上、どうやって簡単にしろというのか。
だいたい人に訊く前に説明書ぐらい読めというのだ。たぶん、家電メーカーなんかだと、説明書を作る専門の部署があったりして、苦労してサルにも判るように易しく誤解されにくい操作説明文を書くべく、日夜努力しているに違いないのである。いくら活字に弱いからといって、彼らの努力を一顧だにしないというのはどうか。
そう、活字に弱い人というのも大勢いる。しかし、機械に弱い人と同じく、自分がそうであることを公言しても特に何事も起こらないのが不思議なところだ。「あいつ活字が駄目なんだぜ」などと陰口を叩かれることもない。
どうも「私、○○に弱いから」とは、「だからその手のことに関わるのだけは免除してもらいたい」という言いわけの台詞らしいのだ。活字や機械に対しては、多かれ少なかれ苦手意識を持つ人が多いので、「あいつ、○○に弱いのか」と同情したくなることもあるが、そこに彼らの甘えがあることを見逃してはいけないと思う。「弱い人」はその弱みを恥じるどころか免罪符にして、体よく「弱くない人」を使役する。機械に強くなろうと努力する自称「機械に弱い人」を見たことがあるだろうか。いやない。
だから自称「弱い人」に同情は禁物だ。
ところで、この手の「弱い人」が苦手とする対象は、けっこう限られているように思う。「機械に弱い人」は最もよく見かけられる。「活字に弱い人」というのもまあいる。しかし、「俺、青酸カリに弱いから」という人はあまりいないし、それをいうなら世の大多数の人が同じ弱みを抱えているわけだが、あまり同情を引く台詞ではないような気がする。そんなものはわざわざ宣言しなくてもあたりまえだからだ。しかし、「○○に弱い」の○○に聞く人の同情をあおるような言葉を入れるのはわりと難しい。「朝が弱い」という低血圧の人はいるが、かといって「昼に弱い」とか「夜に弱い」というと何のことだか判らない。その人に強さゲージが付いていて一日の内で変動するのか。
「女に弱い」男はいるが、「男に弱い」女というのはあまり聞いたことがない。「数学に弱い」女子高生はいても「スリッパに弱い」大学生はいない。だいたいスリッパに弱いとはどういうことだ。スリッパが勝手に引き寄せられて頭にすぱーんとぶつかったりするのか。
「バナナに弱い」と聞くと、まあ、バナナが大好きでそれを餌につられてしまったりするのだろうなあと想像するが、「私、バナナの皮に弱いから」と宣言されても、何がどうなっているのか困ってしまう。バナナの皮を見ると、おもむろにそれを掴んで全身に匂いをこすりつけずにいられないのだろうか。それとも、皮を床に置くや、全速力で駆け寄ってそれを踏んづけて転ぶ、お約束ギャグを披露せずにいられないのか。
あるいは、一房のうち一本だけについている、あの緑のシールを爪ではがして額にくっつけてみたくて仕方がなくなるのだろうか。
たいていの国や社会には、『人を殺してはいけない』というルールがある。少なくとも、建前としてはある。しかし人間は時として、このルールに反発を覚えるものだ。死刑反対論者や博愛主義者の主張が、理屈では納得できても感情的に同調できない人は、決して少なくないはずだ。
人間が作った社会なのに、どうして少なからぬ人間が納得できないルールが存在するのか。
そもそも、「人を殺してはいけない」というルールは、人間にはプログラムされていないのだという。人間が生き物として備えているルール――というか倫理基準――は、あくまでも「仲間を殺してはいけない」であって、「人を殺してはいけない」ではない。むしろ、「仲間のためなら他人を殺してもいい」と思えるように、人間はできているらしい。
断っておくが、ここで殺人行為の是非を問うつもりはない。普遍的なモラル云々について不毛な論争をはじめるのはごめんだ。問題は、現代社会における大多数の人間が、どういう条件でなら、殺人を感情的に許容できるかどうか、である。
例えば映画で主人公が、さらわれたヒロインを救出するために単身敵地に乗り込む、というのはアクション物の黄金パターンだが、そういったヒーローが敵の人間をばったばったと殺していくのを見て不快感を覚える人というのは、かなり少数派に入る。むしろ、そこからいかにも主人公が「正しいこと」をしているかのような爽快な印象を受ける人間が大多数を占めるのであり、だからこそアクション映画というジャンルが成立するわけだ。
無差別に「人を殺してはいけない」というより、「悪い奴は殺してもいい」というほうが、人間の本能により近い。だから、同じ人間だから殺さない、というよりも、自分の大切なものを守るためなら人殺しもいとわない、という姿勢のほうが、おそらく大多数の人間にとって納得できるし、腑に落ちるのだ。
『人はむやみやたらと殺してはいけない。だが、然るべき理由があれば、悪い奴は殺してもいい』
人類は、太古の昔からついこの間まで、この生物的感情に基づいて他人を殺してきた。個人にとっての「世界」が、己の足で歩いてゆける範囲であったうちは、こういうやり方はうまく機能しただろう。「理由ありの」殺人者の周囲にいる人間がみな、おそらく同じ文化、同じ社会基盤を持っていたために、被害者が殺された理由を感情的に納得できたはずだ。
だが、交通技術の発展で、人が行き来できる世界が拡がってくると話はややこしい。同じ世界に違う文化、違う宗教、違う価値観を持つ人間が存在するようになったわけで、「然るべき理由」も「悪い奴」も一概に決められなくなってきたのだ。ある集団にとっては「あいつは悪い奴だから殺されて当然」と思えても、別の集団にとってはそれが生物感情的に納得できない、という事態が起こりうる。悪い奴だからといってうっかり他人を殺せなくなってしまった。だって、そいつが悪い奴だと思わない人々がどこにいるか判らないじゃないか。
それで、とりあえず人間は殺さないということにしておけば、よそで角の立つことはあるまい、というわけで「とにかく人殺しはいけない」という折衷的ルールが発生したのではないか。
ただ、やはり人間としての生物的感情にはそぐわなくなってしまうので、どうしたって不満は残るのであるが。
以下は実在する街頭張り紙の一部である。これを見て、次の問いに答えよ。
日本で唯一
定価よりも高くスキー靴を売る店
設問1:このキャッチコピーが人目を惹きつける理由を百字以内で指摘せよ。
設問2:このキャッチコピーは売り上げ増加に貢献すると思われるかどうか。いずれの場合もその理由を含めて四百字以内で指摘せよ。
しばしば人は、なぜか歩いている時に限って、口に出すかどうかはともかくとして、歌をうたってしまうことがある。しかも、同じサビの部分ばかり壊れたレコードのように何度も何度も歌ってしまうのだ。
しばしば人は、これを「頭の中で巡る」と、あたかも歌のほうが勝手に頭の中で鳴り出すような表現をする。冗談めかして「誰か止めてくれえ」と言ったりもする。
止めてもらいたくなるのももっともで、頭の中で巡ってしまう歌、というのは往々にして古臭い演歌なのである。たとえば私のように、邦楽のCDなど1枚も買ったことなく、ゴシックメタルと室内楽とオルタナティブ系ばっかり聞いている人間ですら、ややもすると『津軽海峡冬景色』のエンドレスループが頭の中に鳴り渡ってしまうのだから、身に憶えのある人は多いはずだ。
なぜ演歌なのか。
それは、ほとんどの演歌のテンポが、西洋音楽でいうAndanteに相当するからである。ご存じのようにアンダンテとは「歩く速度で」を意味する。つまり、歩くリズムがそのまんま演歌の拍子になってしまうのだ。
ためしに、歩きながら頭の中で演歌を歌ってみるといい。
♪上野発の夜行列車 下りた時からぁ〜
みごとに一歩一拍。では、これはどうだ。
♪あなた 変わりは ないで〜すか
日ごと 寒さが つのりますぅ〜
ほら、きっかり二歩で一拍になっている。演歌には、激しい16ビートとか、小じゃれた変拍子というものがおよそ存在しないので、よけいに歩調で調子をとりやすくなっているのだ。
歩調、といえば、行進曲は逆に歩調を整えるための音楽であるから、理屈からいえば歩きながら頭の中で巡りやすいはずだが、どういうわけか故意に歌いでもしないかぎり勝手に脳内をエンドレスループして困ることはない。ためしに、会社からの帰り道、頭の中でこっそり『クワイ川マーチ』を鳴らしてみた。
♪さる ごりら ちんぱんじー
さる ごりら ちんぱんじー
なぜか昔の替え歌を思い出してしまい、しかも最初の8小節しか覚えていなかったために、演歌より激しく無限ループを繰り返すことになってしまったのだった。
いい国語辞典を買わねばと思いつつ、高校時代に買わされた小学館『現代国語例解辞典』をいまだに使っている。初版1985年だから、随所に古めかしい部分が目立つのはやむをえないが、さすがにもう買い換えないとだめだと思わされる項目を発見してしまった。
エム2【M・m】(3) [ドイツ語 Mann から] 男性の意。男性的性格。⇔W。『Mがかった女性』
ダブリュー【W・w】[英語 woman の頭文字から] 女性的性格。⇔エム
この辞書によれば『Mがかった』とはどうやら「男勝りの」と同義らしいが、2000年現在、この辞書でいうところの『Mがかった女性』に向かって「君の性格はMがかっているね」と言おうものなら、袋叩きにされること必至である。いまどき性格に関してMといえば、普通の人はマゾヒズム趣味を連想するものだからだ。むろんこの場合のMはザッヘル・マゾッホの頭文字である。
ちなみにSのほうはどう解説されているのかというと
エス【S・s】[英語 sister から] 女学生の同性愛の相手。
ためしに、数年前までカトリック系女子校にいた我が愚妹に、女の子同士のカップルのことをエスと呼んでいたかどうか尋ねてみた。サドとレズを一緒にするなと莫迦にされた。
だめだ。この辞書はかなりだめになってきている。
「エグゼクチブ」などという表記が堂々と見出しになっているあたり、もうすでに観賞用辞書と考えた方がよさそうだ。
昨夜は夜なべでせっせとV:tMセッションの準備をしていた。明け方6時頃にようやく30分ほどうとうとして、CDコンポの目覚ましタイマーで飛び起き、そこではたと気がついて手帳を見た。
セッションは来週の日曜日だった。
悔しいので昼までふて寝する。
まがりなりにも人並みに社会生活を送ってきた人間の脳には、こんな事態が起きたらどう反応するか、という無数の反応パターンがインプットされているわけだが、もちろん起こりうるすべての事態を網羅することはできない以上、対処に困る時もあったりするのだ。
そしておそらく、誰もが少なからず困惑するに違いないのは、「会えば挨拶する程度の知り合いと、挨拶を交わしたあと同じ方向に歩き出してしまった場合」だろう。
「あ、どうも」
「どうも」
二人とも同じ方向に歩き出す。悪いことに、二人とも身長も足の長さもそう変わらないので、ほぼ同じ速度で並んで歩くことになる。知っている人間と肩を並べて歩いていると、何か喋らないと悪いような気がするのが人の常である。
「駅まで行かれるんですか」
「はあ」
「私もなんですよ」
「そうですか」
会話が途切れる。お互い、何か話さなければと思うが、もちろん、そんなに都合良くあたりさわりのない話題が出てくるわけがない。こんなときはそう、天気だ。天気と政治と病気の話題は、誰でも共通だというからな。
「今日も暑いですねえ」
「そうですねえ。でも夕方、夕立が降るかもしれないと天気予報で言ってましたよ」
「へええ」
また会話が途切れる。天気の話題は終わってしまった。あとは政治と病気か。しかし、いきなり「今度の○内閣をどう思いますか」などと訊いたら変な奴と思われそうだし、かといって「いや、あの人選は間違っています。だいたい○○党の××は……」と朝から滔々と論じられるのも気味が悪い。かといって「私は最近胃が悪くてねえ」と言うのも辛気くさい。朝から病院にたむろしている老人達の会話を思わせて、どうもいけない。
そこで二人は無言で肩を並べて歩き続ける。どちらも頭の中では、早く次の話題を探さなければ、無愛想な奴と思われるかもしれない、と焦るが、努力も空しく沈黙の時間だけが長くなっていく。そこへ天の助けのようにコンビニの看板が現れる。
「あ、私ちょっと寄っていきますんで」
「そうですか。じゃあまた」
かくして双方、これ以上不毛な会話を続ける努力から解放されてほっとしたように別れ、コンビニに入った方は、別にさして読みたくもないタウン情報誌を買うのだ。
このような事態に陥らないために、人はわざと歩く速度を緩めて並んで歩かないようにしたり、電車ならわざと違う車両に乗ってみたりする。けっして、その人を嫌っているわけではないのだ。ただ、一緒にいるとどうしていいかわからない、そんな人間関係もあるだけの話だった。
正午前ぐらいに猛烈な飢餓感に襲われて目が覚めた。そういえば昨夜の夕飯にそうめんを食べてから12時間ぐらい何も口にしていなかった。家人はとっくの昔に爆睡中の私を見捨ててデパートに買い物にでかけたらしい。こういう日に限って食パン1枚も残っていない。インスタントラーメンが大量にあったが、あいにく私は幼少のみぎりに一生分のそれを食ったために即席ラーメンを激しく嫌悪しているのだった。
それで仕方なくスパゲティをゆではじめた。あまりの空腹で2人分食べられそうな気がしたので200gゆでた。蒸し暑いのに熱い麺類はいやだったので冷製にする。飲み物は何にしようかと冷蔵庫を漁ったら、「1本で、1日分のカルシウムの2分の1」と書かれた、飲むヨーグルトを発見。じゃあ、2本飲めば、1日分か。
結局、独りなのに、皿に山盛り2人分の冷製スパゲティと飲むヨーグルト2本。
で、今、気持ち悪い。もういい、スパゲティ。下がれ。
会社から全員にドリンク剤が支給されたのだった。
しかも、1人2ケース。
これでも飲んで夏の修羅場を乗り切れということらしかった。
どういうわけか、不健康な生活を送っていることを自慢げに話す人は多い。特に学生とか、若い人にこの傾向は顕著である。
「俺さー、昨日4時に寝てさー。まだ飯食ってないしさー」
「おれ今日、熱が8度5分あるけどバイトなんだ。休めないんだよ」
「うちなんて3日連続で飲み会でさー」
それならなぜ食わない。なぜ医者にいかない。なぜ寝ない。
まるで、規則正しい健康的な生活を送っていることが、格好悪いことのようだ。
かく言う私の今週の平均睡眠時間は、4時間を切っているが。
寝たい。
耳温計というものが存在することを知った。
耳の穴で体温を測る電子式体温計だそうだ。人間の体温は脇の下か舌の下、牛の体温は尻の穴、と思っていたが、耳の穴でも測れるとは知らなかった。しかも、耳温計は1秒で検温が終わるというからすばらしい。電子式体温計万歳。
なぜなら、同じことを水銀体温計でやると、やはり三分間は耳の穴に先端を入れておかないといけないわけで、腋や口と違って耳は閉じることができないので、検温が終わるまで体温計を片手で支えておく必要がある。ためしに、耳温計でなくていいから家の体温計を片手で耳につっこんでみるといい。そのまま鏡を見てみたまえ。
片手で体温計を耳につっこんでじっとしている姿は、かなり、ばかに見えるのだ。
そういえば、私はついぞ舌下で体温を測ったことがないが、漫画やアニメで人間が熱を出すと、たいてい、体温計をくわえている。舌下体温計というのはかほどに普及しているのだろうか。いや、たぶん、単に絵にならないからだろう。
腋の下で体温計を測っている病人を素直に絵を描くと、その人が上半身裸でもいない限り(上半身裸の病人はあまりいない。それが女性ともなるともっと少ない)、腋に体温計を挟んでいる側のパジャマが、ぽこん、と膨らんでいるところしか見えないのである。
こんな絵では、その人が熱を出して体温を測っているという説明にならないじゃないか。だいたいその人が腋にはさんでいるのが体温計かどうかも怪しい。実はボールペンをはさんでいたという可能性もある。いや、バナナだったらもっと怖い。たとえば病院で、
「佐藤(仮名)さん、そろそろ体温計取りますね」
朝、検温に来た看護婦さんが体温計を回収しようとすると、佐藤(仮名)さんがおもむろに体温計とすりかえておいたバナナをとりだしてむしゃむしゃ食べ始めるのである。
看護婦さんと佐藤(仮名)さんの間に、なんとも言えない空気が漂うにちがいないのだった。
デパートなどの非常口は、火災などで人々が殺到しても開けられるように、外開きになっているという。これが逆だと大変だ。人が殺到してドアが引けない。後ろに下がってくれと言っても、パニックを起こした人々は誰も聞いてくれないだろう。
つまり、ドアは「人が慌てて向かう方向」に開くようにできているわけだ。
茶室のふすまは、横に開く。
誰も慌てないからだ。
デパートの入口のドアは、外にも内にも開く。
外開きになるのは、非常時に客が逃げるため。内開きにもなるのは、バーゲン時に客が駆け込むため。
会社や駅など、大勢の人が使うトイレのドアは、たいてい内開きだ。だって、トイレに駆け込む人は沢山いるが、トイレから駆け出す人はあまりいないからな。
ところが、洋式トイレのドアだけは、なぜか外開きが多い。洋式だとつい長居してしまって、遅刻しそうになってトイレから飛び出す人が多いのか。ちょっと違うような気がする。
この謎を解く鍵はノブにあると私は睨んでいる。
公衆便所などで、洋式と和式の両方がある時、なぜか洋式トイレのドアにだけノブがついていたりする。つまり、ちゃんと内側から鍵をかけないと閉まらないかんぬき式のドアと違って、鍵はかけなくてもいちおう閉まるわけで。すると、1万人に1人ぐらいの割合で、鍵をかける余裕もなく駆け込むなり用を足してしまう人もいるかもしれないわけで。そこに5万人に1人くらいの割合で、中に人がいるかどうか確かめもせず、いきなりドアを開けちゃう粗忽者が現れるかも知れないわけで。
そんなとき、内開きだと大変だ。開いたドアが、中で座っていた哀れな先客にジャストミート。
大通りに沿って伸びる歩道の上に、男が一人座り込んで、路上でインスタントラーメンを食っていたのだった。
どうも、すぐそばにあるコンビニに備え付けのポットでお湯を入れて、その場で作ったものらしい。
Tシャツと半パン姿で、他に荷物も見あたらず、ホームレスにしては身軽すぎる格好だが、堅気にしては小ぎたなすぎる。
夕方のうだるような熱気に、あの即席麺独特の匂いが充満して、空きっ腹を抱えた仕事帰りの通行人の空腹をさらにあおっていた。
もしかしたら新手の宣伝形式なのかもしれない。即席ラーメンの実演販売。
映画『ドグマ』を観た。ひょんなことから世界の破滅を招く旅に出てしまった追放天使二人組を巡って、天使と悪魔と神と人間が上を下への大騒動のコメディとくれば、これはもう私に観ろと言っているようなものだ。
大筋はいまひとつ面白くないが、小ネタでかなり笑わせてもらった。かつて玉ねぎを刻む天使とか、無賃乗車で走行中の列車から放り出される天使とか、ヒロインの前でいきなりズボンを下ろす天使(下半身ボカシ無し(笑)なんで映倫を通ったのかは観てのお楽しみ)とかが映画に登場したことがあったろうか。いやない。そもそもこの映画、天使も悪魔も預言者も神もみんな俗っぽくて情けないのがいい。だいたい、最後に登場するあの御方、ミニスカ履いて逆立ちしたとき見えたアレ、あれは何ですか。性別がないとか言ってましたが、するとあれはトランクスなのですか。
これから観に行く人に一つだけ忠告しておこう。パンフレットは観た後で買いなさい。ネタばらしありすぎ。
はらへった。
しばらく前から近所の駐車場に小汚いグレーの国産車が停めてあるのだが、車の鼻面の、メーカーのエンブレムが取り付けてあるすぐ上側に、油性マジックで小さく
BMW ○ アウディ
と落書きされているのだった。真ん中の○は、実際に円を三分割したような例のベンツマークである。
いずれも外国車の名前だから、この落書きをしたのはたぶん持ち主と見た。そして、たぶんばかだ。
忙しいというから日曜出勤したのにヒマなので、業務マニュアルを読んでいたら、そのクリアファイルの一番後ろに、妙なものがはさまっていた。
それは紙を丸く切り抜いたワッペンのようなもので、中央にとほほな顔をした中年親父の顔と「悪客退散」という言葉が、筆ペンで下手くそに書かれているのだった。
いやな客を追い払うお札らしい。塩をまくようなものか。しかも、何度も使われたことがあるらしく、挟まっているのはあきらかにコピー機で複写されたしろものである。
思わず手を合わせて悪霊退散、いや悪客退散を祈ってしまった。
『909の恐怖』(ディスカバー21)を読む。不特定多数の人に「あなたの怖いものは何ですか」「恐怖を感じるのはどんなときですか」「これまでにどんな怖い体験をしましたか」と質問して、出てきた答えを集めた本だ。
何のコメントも分類もなく、ただひたすら淡々と箇条書きにしてあるところが妙に気味悪い。「耳に虫が入る」とか「ふと気がつくと、周りはみんな○○だった」とか、共感できるものもあればできないものもある。
もし私が聞かれたら、何と答えたか。
NHKの放送終了時に、君が代をBGMにはためく日の丸。
「あなたがおかけになった番号は、現在使われておりません」という落ち着き払ったアナウンス。
毛虫が異常繁殖して、ビルの壁を埋め尽くしたとき。
夏の間だけだが、とにもかくにも仕事にありつく。
夕焼けが綺麗な紫色だった。
納得のいかないもの。
大駐車場完備の『つ○八』。車で来て何を飲めというのだ。
「二十歳はお肌の曲がり角」。下り坂とかなら判るが、曲がったらどうだというのだ。
キュリーにしろ、ガウスにしろ、人名が単位になるとみんな呼び捨てなのに、摂氏と華氏だけはなぜ「氏」と敬称付きなのか。
「突然のお手紙失礼します」と書くが、「これから手紙を出しますので」と連絡する奴はいないだろう。
サーカスにつきものの「空中ブランコ」だが、ブランコというものは地面に接していては用をなさないと思う。
たいていの人間は、辞書を引くのを面倒がる。
『噬臍の悔い』などと、見た目にも小難しい言葉なら、後学のために国語辞典でも開いてみようかという気になるが、たとえば「ゆほびか」のように平仮名ばかりの単語だと、どうでもいいやと分からないままにしてしまうものだ。平仮名だけの単語は易しいという認識が、我々の頭のどこかにあって、そういう言葉の意味をわざわざ辞書で調べる行為は、なんだか自ら脳の程度を貶めるような、プライドが傷つくような気分になるのだろう。
それで登場するのが「ママ」だ。
ほかにも、気になる情報のタイトルは多い。…(中略)…「テレフォンレデー(ママ)高級優遇!」「無気力な方」 (宮沢章夫『わからなくなってきました』)
引用している筆者は、明らかにその表記が変だと思っているが、あえてそのまま引用するとき、変な部分の直後に『ママ』とつける。これが「そのまま」の意味だと分からなくて、つい数年前まで悩んでいた。だって片仮名だぞ。なんでこんな場所にいきなり母親が出てくるのか。しかも文章によっては、その「ママ」さんは二カ所も三カ所も出没するのだ。
ちなみに、辞書で「まま」をひくと
まま【儘】(7)書物の校訂などで、原本どおりであること。普通「ママ」と書く。(大辞林)
と、一発で解決してしまうのだった。
D・グラシウナス&J・スターリン『サイコメトリック・キラー』(ハヤカワ文庫)を買う。サイコメトリー(物体に残留した他人の記憶を読みとる超能力)に関する資料が欲しかったからだが、読み始めて驚いた。異常殺人者専門の連続殺人鬼である主人公は、たしかにサイコメトリーを使うのだが、同時にテレパスでもあって、前半はほとんどテレパシー能力だけで話を進めていくのである。いや、むしろテレパシーのほうが主能力らしいのだ。
原題は「Thinning The Predetors」だから、タイトルを『サイコメトリック…』としたのは翻訳者の判断だろうが、なにしろ裏表紙のあらすじにも主人公がテレパスであることは一言も出てこないので、ストーリー後半からサイコメトリーを使いだすまで、だまされたようなイヤな気持ちになる。
わざと相手を刺激する質問をして、表層思考に浮かんだ答えをテレパシーですくいとるという、超能力者ならではの尋問のくだりは痛快だったが、肝心の目的であるサイコメトリーの資料には全然ならなくて、よほど返品に行こうかと思ったが、読んでしまったのであきらめた。
ストーリーは述べると面白くなくなるぐらい単純明快だ。やっぱり女が出てきてベッドインしてハッピーエンドなんだな、と、ハリウッド映画のいわゆる「アクション超大作」を見た後のような気分になることうけあい。肩が凝らないのはいいが、やや拍子抜けする展開だ。だいたい、テレビの連ドラじゃないんだから、残りページ数で今後の展開が予想できるような話は、ちょっとなあ。
新聞のテレビ欄とラジオ欄が別のページになったのは、何年ぐらい前からだろう。じわじわと拡大を続けるテレビ欄にラジオ欄が追い出されたわけで、どちらもスペースが拡がっていいことだと思うが、相変わらず番組名をむちゃくちゃに省略して載せるのはなんとかならないものか。
「すーぱー」「よろしく」だけでは何のために欄を大きくしたのか分からない。「闇(やみ)社会」などと、人を莫迦にしているとしか思えないルビをふって字数を稼ぐより、テレビ欄の番組名を省略せずに載せられるよう紙面を割いた方がよほど有用だと思うのだが。
いや、省略をやめるだけではだめだ。最近は番組名そのものが内容をちっとも反映していないので、いずれにしろわけのわからないことになっている。
「ワーコレ」「ホミサイ」「ちゅらしま」これは日本語なのか。
NHKも最近は油断ならない。「マテマテ」の次に「とびだそ」である。早朝なのに「ゆう」なんて、いったいどんな番組なのか。衛星放送に至っては「だぁ!だぁ!だぁ!」などと、企画者がヤケになって発した音声をそのまま題名にしたとしか思えないものまである。
ラジオ欄は、さすがにテレビ欄と同じページだった頃ほどひどい省略は減ってきている。しかし番組名のわけのわからなさは、ここにも蔓延していた。
| 10.00 | オレたちXXXやってまーす |
| 0.00 | XXX//X |
| 2.00 | オレXX◇夜◇歌謡 |
XXは別に私が故意に伏せ字にしたわけではない。本当に番組表にこう書いてあるのだ。いったい、このラジオ番組の出演者は、番組名をどう読んでいるのか。芸能には全く興味はない私だが、このXXXにひかれて深夜に聴いてみようかとも思うのだった。
はっ、もしかしてそれが命名の狙いなのか。
寝る前にガス栓を閉めたかどうか気になって何度も起きる人というのがいる。玄関の鍵がちゃんとかかっているかどうか、ふいに気になって引き返したとき、ほんとうにかけ忘れていたのなら「やれやれ、思い出してよかった」と胸をなで下ろして済むが、きちんと鍵はかけているのに自分がその鍵をかけた事実を忘れていたということを、引き返してから気づいたとき、なんとも情けない心持ちになるものだ。
我が妹は、パソコンで電子メールを送った後、携帯で「電子メールを送ったよ」とメールを打ち、「メール読んだよ」と返事が来るまで待っている。今朝の新聞の読者欄には、70歳だかのお年寄りが「電子メールの魅力にすっかりとりつかれ」送るたびにFAXで「電子メールを送ったので読んでください」と書いて送るという。しかしファックスを使うぐらいなら、はなからファックス用紙に用件を書いて送ったらどうなのだ。と思ったら、捨てようと思っていたビジネスマン向け電子メール入門書にこんなことが書いてあった。
『急ぎのときは電話やFAXを使い、「今、至急の用件でメールを送りましたので、お仕事中でお忙しいとは思いますが受信をお願いします」と連絡をとるようにしましょう』
しかし、実際に電話でそういうことを言われたとしたら、「急ぎなら今この場で言ってください!」と叫びたくなるだろう。ただでさえ、仕事を中断して相手の電話に応対しているのである。いま電話の向こうにいる相手が言いたいことを、何が悲しくてわざわざメールソフトを立ち上げて確認しなくてはならないのか。ファックスならもっと腹が立つ。「メールを受信してください」とだけ書かれたファックス。急ぎならなぜこの紙に書いて送らない。これこそ森林資源の無駄ではないのか。
TRPGサークルの例会で妖魔夜行をやる。むかし洒落で作ったキャラクターを引っぱり出してきたのだが、これが洒落にならんぐらい強いことが判明して愕然とした。
今日の打ち上げはデパートの屋上ビアガーデン。ここ数年来、夏になると我らがサークルの酒飲み連中が出入りする場所である。最近サークルにちょくちょく現れるようになった新人も加わって、我々は入るなり親の仇のように呑んで食って呑みまくった。
ところでここは、購入したチケットと引き替えに入口でジョッキと皿を受け取るシステムになっている。新人氏は、ビアガーデンを出てトイレに行き、戻ってくるときに、入場券をどこかでなくしてしまったと思いこみ(もちろん入口でお姉さんに渡しているので、持っているわけがない)、こともあろうにもう一度3150円也のチケットを買ってしまったのだ。
入口のお姉さんも、チケット売場の人も、ビアガーデン内にトイレがないことはもちろん心得ており、トイレに出て戻ってきただけの客に入場券を見せろなどと言ったりしない。ゆえに彼に同情する者は一人もおらず、ひたすら彼の律儀さと、すこしのばかさを笑うばかりだった。
ゲームに負けた者に罰として恥ずかしいことや嫌なことをわざとさせることを「罰ゲーム」と称するが、よく考えるとこれも妙な日本語である。
人が罰ゲームとして敗者に課す課題にはどんなものがあるか。指定された相手にキスする。コンビニに一人寂しく買い出しに行く。嫌いな食物をむりやり食う。酒を一気飲みさせる(良い子は真似をしないように)。ボーリング場で貸し靴を丁重にお脱がせして、元の靴を履かさせていただく。
どれもこれも、全くゲームではない。「ゲームの罰」ではあっても「罰としてのゲーム」とはいえない。
ほんとうの意味で罰ゲームとは、強制されないかぎり人がすすんでやりたがらないようなゲームであるべきだろう。例を挙げれば、ロシアンルーレットなどだ。
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